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続いていくゆらめきのその先に

いつかでもなく、どこかでもなく、何かでも誰かでもない。
言葉もなく、形もなく、自分自身も溶けていくと、ただゆらめいているものだけがある。
自分の内にもあり、外にもあり、まわりの様々なものの中にもあり、内も外もなく、境界線もなく、分け隔てなく、どこまでも繋がっていて、広大な海のように、宇宙のようにゆらめいている。

何かを作るとき、何かを使うとき、何かをするとき。
言葉が消えてゆき、形も消えてゆき、周りにあるものが溶け合うように同じゆらめきの中で一つになるとき、そういうことだったのかと思えたり、これでいいと思えるような、あらゆるものがぴたりと納まるような瞬間がある。

身を委ねるそのゆらめきが、その先どこに辿り着くのかはわからない。
ゆらめきはどこまでも続いていく。
時間も場所も方向性もなく、ただ果てしなく広がっていて、その中心は、銀河のように光り輝きながら、まるでクラゲのように雄大にゆらめいている。

見に見えてくるものや現れてくる形は、ずっとどこまでも続いていくゆらめきの中から、今という瞬間に、「私」という器や「誰か」、何かの器を通して、例えば影絵やホログラムのように映し出されてくるようなものかもしれない。

あらゆるもののゆらめくこの先が、どこへ向かうのかは分からない。けれども、あらゆるものと溶け合うようにゆらめく瞬間を、少しでも長く続けていければと思う。

ゆらめきの中であらゆるものがぴたりと納まるようにして何かを生みだしていくことに、「私」も共に携われたらと願う。
そうして生まれた何かが、誰かの手に渡り、どこかにたどり着き、そこでまた誰かや何かとともに、ゆらめきの中で溶け合うようにして、何かを生み出せたらと祈る。

このゆらめきの先に、何が見えるのかは分からない。
けれど、やがて「私」という器が消えてなくなるまでのつかの間は、ゆらめきの中から「私」を通して見えてくるものを見られればと思う。

いつかでもどこかでもなく、このゆらめきの続いていくその先で、広大なゆらめきの中から、また新たな「器」を通して見えるものや生まれてくるものはどんなものなのだろうと、楽しみにしながら。


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