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コロナウイルスと江戸時代。
コロナウイルスと江戸時代。
大学時代の友人にKくんという男がいる。彼は、日本史を専攻していたのだが、独特のオーラを出す、ちょっと風変わりな奴だった。大学を出てからは、会うこともなかったのだが、30年くらいして、共通の友人を介して連絡があった。彼は卒業後、ひたすら日本史の研究にうちこみ、故郷に帰って学習塾を作り生活しつつ、日本各地の神社仏閣を訪ね、過去帳を調べていたという。その成果を本にしたいので相談にのってくれということだった。
送られてきた原稿は、古文書の解析というようなもので、素人目には何がなんだか分からなかった。それで一度、会おうということになり、デメ研に来てもらった。日本史を勉強するのに、なぜかラテン語の必要性を感じ、ラテン語をマスターとしたという不思議な男である。
彼が日本史の追求していて、直面したのが「疫病」であった。各地の過去帳を調べると、地震や津波の歴史や、噴火や台風などによる飢饉、そして、疱瘡(天然痘)や水疱瘡や麻疹(はしか)そして、現代のインフルエンザである流行り風邪が大量の死者を出していた。当時、死者はお寺に運ばれたであろうから、その記録が残っていたのだろう。
彼の仮説によれば、政治体制の変革など、歴史的事件の背後には、疫病の流行による社会不安があるというものであった。テーマは面白いが、彼の原稿を本にしても、誰も分からないから、もっと僕にも分かるように説明した文章にしてくれ、と言ったと思う。彼の本は結局、出すことはなかったが、彼と飲んでいて、今でも覚えていることがある。こういう話をたくさん書いてほしかった。
「橘川は東京生まれだけどさ、東京に生まれて三代続くと江戸っ子っていうけど、あれはただ続いただけではないんだ。東京で三代も続けば、必ず、どこかで火事か疫病で家系が途絶えてしまう。だから、それを生き延びて三代続くのは大変珍しい、という意味なんだ」
江戸が終わってからまだ180年。僕らの環境は、天災の中で生き延びた歴史なのだ。
人口論の第一人者である古田隆彦さんから、昔、「江戸文化って、疫病や凶作でひどい時代に花開いたんです」と。確かに経済が豊かな時代は、文化よりお金かけた文明の方が発展し、ひどい時代になると、個人が内面を探るしかなくなるのかもしれない。
コロナウイルスは怖いが、何か特別な事件だったり、誰かの陰謀だったりするわけではない。現代の特別な病気ではないのだ。不可知の自然と、僕たちは付き合いながら生きてきたし、これからも生きていくのだ。
▼参考
天下大変・流行病
平穏な生活を破壊し多くの人命を奪ったのは、地震・噴火・火災・水害そして飢饉だけではありません。江戸時代にはまた痘瘡とうそう(疱瘡ほうそうとも。天然痘)、麻疹(ハシカ)、風邪(インフルエンザ)等の折々の流行によって、短期間に想像を絶する数の人命が失われました。
天然痘が多数の幼い命を奪い江戸時代の平均寿命を引き下げていた事実はよく知られていますが、インフルエンザも、劣らず猛威を振るっています。享保元年(1716)、江戸の町で流行した風邪はインフルエンザと推定され、ひと月で8万人以上を死亡させたと記録されています。
面白いのは流行の年によって風邪に異なる名が付けられたこと。明和6年(1769)に流行した風邪は「稲葉風」と呼ばれ、安永5年(1776)の風邪は「お駒風」。ほかに「谷風」「ネンコロ風」「ダンホ風」「琉球風」「アメリカ風」というのもありました。江戸の人々は、数年おき(長くても十数年おき)に襲いかかる風邪(インフルエンザ)の流行に異名を与えることで、その悲惨さを記憶に刻もうとしたのでしょう。江戸末期にはコレラという新種も加わります。コレラは安政5年(1858)に大流行し、各地でパニックを引き起こしました。
◇国立公文書館
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