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1時間で読める本の価値

 私は「読書」という言葉を小説にしか使わない。新書や解説書も立派な書籍だとは思っているが、読んだからといって読書をした気分にはならない。こういう場合を、個人的には「消費」と読んでいる。内容を理解してしまえば、それ以上その本に用が無くなるからだ。

 小説の場合はそうではない。本棚にいつまでも飾っておきたいし、ふとしたとき手に取って物語を思い起こすこともある。こんな時、彼ならなんと言ったっけ、なんて主人公の台詞だけ読み返すこともある。それは単に小説の情報量が多く、新書のように要点もまとまっていないために記憶しきれないとだけの話かも知れない。天才的な記憶力の人間ならば、一度読んだ小説には二度と用がなくなるのかも知れない。そういうことでかまわない。

 人は一度で理解しきれないものにより大きな価値を感じてしまう。文学に関してだけではない。芸術全般、食事、人付き合い。消費しきれないものは飽きさせない。探究心を刺激される。だが味わい深いものばかりでもアゴが疲れてしまう。その点、解りやすくまとまった自己啓発本などは非常にありがたい。効率よく役立ってくれて無駄にならない。よく「年に1000冊の本を読む」という人がいるが、実践すれば相当知識量も増え、本人の人間性にも磨きがかかるだろうと思われる。

 しかし最近何冊も読んでみて理解したことがある。1時間で読めてしまう本は、決して1時間分以上の深さをもった話ができないのだ。似たようなタイトルの本は結局似たような話までしかできない。内容が薄くて不誠実だとかそういうことではなく、そこが物理的な限界なのだ。

 ひとつの分野について、1時間で読める本を何冊読んでも仕方ない。3冊までなら基礎の復習として良いかもしれないが、その後は3時間で読める本、2日はかかる本、辞書を引きながら1週間はかかる本と、選ぶ本の厚みを増していかなければいけない。「消費」が「読書」に変わる時に、自分という人間の味わい深さが測れるかも知れない。

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