心情について
そこらじゅうにある多くの線を超えることは簡単だった。
向こう側に何があるのか分からなくても。
それをある人は積極的だと言います。
それを別の人は不健全だと言います。
さらに別の人は愚か者だと言います。
それが私にとっての若さです。
本気で何かを潰しに、殺しに行くことが若さです。
他人との関わりは自分が潰されて殺されることです。
幸・不幸、損・得、好き・嫌いではなくて、ただの好奇心です。
気味が悪くて美しくて熟れた果実の香りがするものが若さです。
「若いうちしかできない」ことを散々言われてきました。
以前に綺麗な死に方を考えていた人が、地獄を知りながら現在生きている姿を見ました。
その人にとっては自分は無力なのだと改めて痛感させられました。
無力であること、影響を与えられないことは何の責任も伴いません。
プライベートに限り。
あの人が死んでも何の関係もありません。例えの話です。
「自分のせいであの人が死んだ」と考える図々しさは無意味です。
ただ涙を流せばいいだけなのに。
死の悲しみは自分に酔うことで薄れますか。
後悔していることが2つあります。
そのうちのひとつについて、個人的な話をします。
私と友達だった、ある女の子についてです。
私は彼女と一緒に道路の割れ目に生えた紫色の花の蜜を吸いました。
沢山のお花を摘んで、それと水をビニール袋に入れて色水を作りました。
彼女が髪の毛を切りすぎた朝、帽子を深々と被りながら不貞腐れていました。
ダンゴムシを虫かごに集めていました。沢山のダンゴムシを見た夜は、脱衣所で服を脱ぐときにダンゴムシが落ちてこないか不安でした。
カエルに彼女が当時好きだった男の子の名前をつけて育てていました。
私が初めてクレヨンしんちゃんのアニメを観たのは彼女の家でした。
あの子の泣き顔も笑い顔も照れてふくれっ面の顔も鮮明ではないけれど感覚として私の脳に残っています。
私が思い出せる限りのあの子はどんどん薄れていきます。
きっと膨大な思い出と言われるような日常を過ごしてきたにも関わらず。
誰よりも心が繊細で、弱さを見せることが出来たなかったあの子を私は、当時の私からいつまでも思い出されます。
自分の身体がどうなってもいいと自暴自棄になることが、時々あります。
けれども私は彼女に、もう一生会うことの無いであろう彼女の手に、顔に皺が深く刻まれるまで生きていて欲しいです。
私はその子に何も出来ないのに。
誰かが私を大切に思っていると気づいてしまった時に、想っているだけ、願っているだけでは何もなりませんでした。
私は彼女に対して何も出来ないから、ただの後悔ばかりが年を経るごとに大きくなります。
苦しんでいる彼女に何もしない、という選択を当時の私はしました。
自分の正義を公にするより、自己防衛に身を徹したから。
後悔しない人生なんてある訳がない。
過去と現在と未来の自分は別人だから。
つまりそのとき選択をした過去の自分と選択後の結果を知る現在の自分では相容れない考えがあるに決まっているから。
もうひとつの後悔も、自分がこれ以上傷つかないようにするための自己防衛を最善策にした結果でした。
彼女とのことを踏み台にして、お前は今ここにいるんだね、と私は思います。
今の自己防衛は気持ちに素直になることです。
その時に傷つくことが自己防衛です。
のちに後悔しないために。