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ヒトとモノの代替品

一昨々日

10代最後の秋に初めて香水を買いました。
とても気に入って毎日つけていた金木犀の香りは、今つけると特有の甘い香りが気分を悪くさせます。

10代の時にとても仲が良かったあの子と何の関係もなくなったことに気づいた時と同じでした。
ゆっくり、ゆっくりと彼女とのリボン結びの紐がほどけたことに気づいた時と同じでした。

「嗜好が変わった」といえばそれだけの事です。
今は違うブランドのハンドクリームがお気に入りです。

一昨日

自分の思っている“赤色”は誰かにとっての“黒色”かもしれないと本気で考えていたときがありました。

私とあなたが同じ対象を見ていても、判断する目と脳と見る角度が違えばあなたの見るものはきっと私は初めて見るものです。

誰でも良いけど、誰でも良くないです。
誰でも同じで、誰も同じじゃないです。

全ての人も物も唯一無二だと思っているのは、自分が誰かにどれだけ傷つけられても自分のことを嫌いになりたくないから。
全ての人も物も代替がきくと思っているのは、自分がどれだけ辛苦しても全てが糧になることを私に伝えたいから。

昨日

庵野さんをTVで観ました。

自分が苦しい時に、誰かと一緒にいることが絶対的な支えになるんですか。

文字を書き出すことは自分の精神安定剤であることに気づきました。

今日

意識していること。
他人からの評価に感情を入れすぎないこと。
自分を見つめるときに淡々と考えること。

物心ついたときから「優しいね」って言われてました。
嫌でした。
ただ臆病で自分の思っていることを発せなかっただけだから。

自分から見た多面すぎる自分と、他人から見た一面の自分なんて違って当然だと思えた時から、人から評価されることに緊張を感じなくなりました。

「優しい」の言葉の定義も人によって違う。だから、
他人の評価に敏感になることは自分の価値観を最優先に考えていることだと気づきました。

他人の意見の抑圧は、自分の感情の抑圧に繋がっていました。

けれど感情(思い、心、気持ち)は、ゼロをプラスに或いはマイナスをゼロにしたい時の原動力です。
“偏見”には誰かの“思い”が含まれている。
“思い”にはその人の生い立ちで作られる。
だから偏見は自然に発せられる。
だから偏見はなくならない。

けれど“差別”は偏見から起因した“言動”として可視化される。

正義と感情を一律化する教育は私の祖母が小さな女の子だった時代なら合っていたのかもしれない。

感情を無視すること
ではなくて
感情に向き合うこと

害を与えないようにすること
ではなくて
害を与えられた時に立ち直すこと

何人もの人が死んだ事件で猛毒を作ったあの人は“居場所”を欲していたそうです。



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