校庭の隅っこにいた自分と、ヤンゴンの遊び場にいる息子へ
休み時間が苦手な小学生だった。
授業と授業の間の10分くらいの休み時間は平気なのだ。お手洗いに行ったり、次の授業の準備や移動で終わる。
私が苦手としていたのは、大休憩とたしか言われていた2時間目と3時間目の間にある休み時間と、給食の後の昼休みだ。
私は、外で遊びたくなかったのだ。
大抵のクラスメイトは、意気揚々と校庭に遊びに出ていく。大休憩は、外で元気に遊ぶための時間だった。教室に残っていることは許されなかった。
運動は得意でも好きでもない。フットベースだったか、キックベースだったか、ドッヂボールだったか、球技は特に苦手だった。
全部苦手だったのだが、特にドッヂボールは嫌だった。人に球をぶつける競技って何。ぶつかれば痛いし、人にボールをぶつけて喜ぶ趣味もない。そもそも投げてもぶつからない。だが、私以外の皆は心から楽しんでいるように見えた。
昼休みの方は、図書委員会に入ることでやり過ごした。貸出業務が好きだったわけではなくて、堂々と校庭で遊ばずに図書室に居られるからだ。
しかし、大休憩はそうはいかない。仕方ないので、外に出て、校庭のすみっこにある丸太のベンチに座っていた。
ある日、同じく丸太のベンチに座っていた友達と、たわむれに相撲をとった。
それを見た先生に「マキちゃんは、外で遊ばないので心配していたけれど、今日は相撲をとっていて安心しました」とホッとしたように言われた。
今、この文を書いていて胸が苦しくなっている。その時の私は、胸が苦しくなったりはしなかったけれど、私が楽しく外遊び出来る子でなかったばかりに、先生を心配させていたのか、申し訳なかったな、と思った。と同時に、子供らしく外で遊ぶのが好きでない自分は、正しくないのだろうな、と感じた。
大人になった時は心底ホッとした。体育の時間も、大休憩もなく、昼休みに何をしようと自分の自由だ。
しかしまあ、大人になってからも、運動が苦手というコンプレックスは根深く、運動を楽しめる人に比べて自分は何か劣っている、足りていない、という気持ちは未だにあるのだが、最近は「私、スポーツは罰ゲームだと思ってる人間なので!」「運動神経はお母さんのお腹の中に置いてきたので!」と言えるくらいには、なっている。だが、「運動嫌いです」と、ストレートに表現していない時点で、まだまだ何かやましい気持ちがあるのかもしれない。
ずっと昔のこんな事を思い出したのは、ミャンマー・ヤンゴンのショッピングモールにあるプレイグラウンドだった。
暑季の気温は40℃を超え、1年の半分が雨季であるミャンマー・ヤンゴンで子供を遊ばせるのはなかなかに苦労が多い。日本のように、気軽に遊べる公園がたくさんあるわけではないし、そもそも1年のほとんどの時期が外で遊べる気温や気候でないのだ。
安全に子供を遊ばせようと思ったら、住んでいるコンドミニアムにあるプレイルームや(※我が家はローカルアパートなので当然そのような設備はありません)、ショッピングモールの中に併設されているプレイグラウンドを利用するしかない。
無料で遊べる場所や、利用料金がかかる場所など様々だが、その日は、息子にせがまれ、新しいショッピングモールの中にある大きな有料プレグラウンドに来ていた。
ボールプールや滑り台、回転する遊具やトランポリンなど、思いっきり体を使う遊具が多く、集まっている子供達はものすごい勢いで走り回っている。
息子は、少しボールプールで遊んだ後、プレイグラウンドの片隅に設けられたテレビコーナーに陣取り、アニメを観始めた。
私は少しイラっとして息子に言いかけた。
「テレビ観るならお家でもできるでしょ。せっかくプレイグラウンドに来てるんだから、あっち(滑り台やボールプール)で遊んだら?」
言っている途中で、小学生の時の出来事が蘇ってきて、「うわあああああああ」と、雷に打たれたような気持ちになったのだった。
小学生の私が欲しかったのは、休み時間という好きな事をするための時間に好きな事をする自由だった。誰か大人が(この場合は先生しかいない)、「マキちゃんは、教室で本を読むのが好きなんだね。それもイイね!」と言ってくれたら。どんなに救われただろう。だって休み時間なのだから!好きな事をすれば良かったのだ。校庭で遊ぶのではなく、教室で本を読むのが好きな子だっているのだ!
それなのに!それなのに!
私自身が、今まさに我が子をステレオタイプな理想にはめ込み、それを押し付けようとしていた。
プレイグラウンドで、キャーキャー言いながら走り回る子が正しく、ゴロンと寝転んでアニメのテレビを見る子は正しくないのか。
ボールプールでボールに埋もれてはしゃぐ子は良い子供で、座り込んで隅っこでパズルをチマチマやる子供は悪い子なのか。
私が、あの休み時間に、そうしたかった事を今この子はしている。
この子がしたいことが正しいのだ。いや、正しさなんていらないのだ。
それなのに!ああ、それなのに!
我が子には、子供らしくキャッキャと楽しく駆け回って欲しいとか、7500チャットも払ったのだからプレイグラウンドを満喫してくれないと元が取れないとか(そもそも息子は満喫している、アニメやパズルを…)大人の都合で勝手に考えて。
あの時の先生と私は同じだ。子供はこうあるべき、と決めつけて善意で余計な事を言って(今なら分かる、余計なお世話だと!そもそも休み時間なんだから好きな事させて!)自分の息子の好きな事を否定しようとしていた。
私は、校庭の丸太のベンチに座って大休憩をやり過ごした小さなマキちゃんと、4歳の息子に心の中で深く詫びた。
息子よ、好きな事を目一杯してください。
これから先、小学生のマキちゃんが出会ったように、あなたをステレオタイプな理想に当てはめて、あれこれ言ってくる人は必ず現れる。それもまた人間だし、人生だ。
それでも、私だけは言い続けるのだ。
「あなたはこれをするのが好きなんだ、良いね!」と。
私があげられるギフトはこれしかない。
これだけを手渡せれば、それでいい。