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私たちが「メッシュワーク」である理由

最初に打ち明けてしまおう。私たちの目指す人類学的なビジョンやアプローチはそれなりに明確だったのだが、そのビジョンを実現するチームに名を与えること−つまり私たちの取り組みを名付けること−はとにかく難航した。互いに日々アイデアを出しては、何かが違う、ピンとこない、というやりとりを延々と繰り返した。あまりにも決まらなかったので、ここは私たちの尊敬する誰かに名付け親になってもらうのがよいのではないかという話になった。

当初は苦肉の策だったけれど、「誰かに名付けてもらう」というアイデアは、考えてみれば悪くないような気がした。なぜなら私たちは、自らが主体的に世界を切り開くというよりもむしろ、他者とともに、世界に対して柔軟に呼応しながら、何かを創っていく存在でありたいと思っているのだから。そうした私たちの在り方に対して、この名付けの方法はふさわしい気がしたのだ。

そこで私は、イギリスの著名な人類学者であるティム・インゴルドに一通のメールをしたためた。ちなみに彼とは一度たりとも会ったことがなく、知り合いを介して連絡したわけでもない。

見ず知らずの著名な相手に突然連絡することに対して、ためらいが無かったといえば嘘になる。けれども水上くんに背中を押され、とにかく勢いで、ウェブ上で見つけたメールアドレスに宛てて、以下のメールを送った。


インゴルドへの手紙

親愛なるインゴルド先生

こんにちは。比嘉夏子と申します。
日本の人類学者である私は、長きにわたってあなたの著作を読み、そして色々な意味で刺激を受けてきました。それは駆け出しの人類学者として受けた刺激であるだけでなく、自分と自分を取り巻く世界との新たな関わり方を追い求める一個人として受けた刺激でもありました。

これまで私は、太平洋の小さな島国であるトンガで、10年以上フィールドワークを行っています。そこに暮らす人々の、モノを与えたり分け合ったりする日々の実践のなかに、私自身も巻きこまれながら、彼らの生を観察することに魅せられてきました。人類学的なフィールドワークは互酬性のうえに成り立っているとあなたはおっしゃっていましたが、それはまさに私もフィールドの人々と関わるなかで感じていたことです。人々は彼の地で絶え間なくギヴアンドテイクを行っており、私も彼らとともにそれを経験し、やがてそうした実践が博士課程での研究テーマとなりました。

私はフィールドワークがとても好きでしたし、人類学という学問にのめりこんでいました。けれどそれと同時に、純粋な研究者に限定されがちな昨今の人類学的な議論からは、徐々に関心が遠のいていきました。自分にとって、この状況はだいぶ奇妙なものに思えたのです。なぜなら私たちの研究というのはその多くをフィールドの人々に依っているという事実がある、にも関わらず、結局のところ人類学者たちは小さなコミュニティのなかで自分たちのために話し合い、思考し、自らが幸運にも巡り会った人々からは、むしろ遠のいているように思えたからです。

私があなたの一連の著作と出会ったのは、そのように失望していた頃でした。そこであなたの著作に強く励まされたことによって、私は一歩踏みだし、異なる分野や業界の人々との協働を始めました。そして現在、友人と共に、人類学的な視点と考え方をアカデミアの外へ普及していくためのチームを立ちあげようと、そうやって人々と「ともに」協働しようという試みに向かっています。その人類学的な組織では、何かを生みだそうとするあらゆる人々との活動が可能となると信じています。また願わくばそれによって、未来志向の人類学としてこの世界への貢献ができればと思っています。

私たちがこの新たな取り組みの名前を考えようとしたとき、インゴルド先生、あなたのことがまず頭に思い浮かんだのでした。そしてもし私たちのチームを名付けてくださればと、名付け親になってくださればと考えたのでした。こんなことをお願いするのはとても厚かましいのですが、私たちのこの組織の名前について、何かアイデアをいただけないでしょうか。もしもそうしたアイデアをいただければ、私たちはあなたの哲学の下に組織を立ちあげることができ、そのことは何よりも私たちを奮い立たせてくれると思うのです。
ここまでメールを読んでくださりありがとうございました。
おそらく大変お忙しいと思いますが、もしお返事をいただけましたらありがたく存じます。

温かな敬意をこめて。
夏子


いま世界中でもっとも多忙な人類学者のひとりであるはずのインゴルドに対して、無謀かつ不躾に、とにかく勢いで送ってしまったこのメールは、例えるならボトルに詰めて海に流した手紙のようなもので、こちらの想いを切々と書いてみたものの、おそらく読まれずに終わるのだろうと思っていた。
だが数日後、その予想は、幸運にも覆された。


インゴルドからの手紙

親愛なるナツコ

メールをくれて本当にありがとう。あなたがアカデミックな人類学に感じた失望は、実によくわかるよ!それは私自身が経験したことでもあり、何年もの間、ますます苛立ちを感じるようになっていったことだった。我々は他者とともに研究をし、彼らから学ぶと公言する、しかし、君が言うように、結局はその学びを「分析」のためのデータへと変換し、そのデータを我々は自分たちの間だけで、他者には理解できないような言語で共有しているのだ。私が理解するところでは、人類学とは、私たちが来るべき時代に向けて、自らの生をいかに共に生きていくべきかについての現在進行形の会話に、ありとあらゆる人々を引き寄せるための手段であるべきだ。

(中略)

とにかく、あなたの取り組みの名を提案するよう頼まれたことは光栄だ。ただしこれは珍しい依頼だから、何を提案すれば良いのか本当にわからないんだ!私が持っているいくつかの単語やフレーズといえば、私の人類学の定義(「なかの人々と共にする哲学」)、最近のリサーチプロジェクトのタイトル(「内側から知る」)、私がそれによって知られている概念(「メッシュワーク」)、そして一番最近の私の著書(「コレスポンデンス」)、など。どれも組織の名前のようには聞こえないけれど、おそらくこれらが何か君にアイデアを与えられるかもしれない。

敬意をこめて。
ティム

異国の、見ず知らずの人類学者の私に対して、インゴルドの言葉はとても温かかった。そして寛大にも、彼自身が大切に温めてきた概念をいくつか提示してくれた。そうした言葉を惜しみなく分け与えてくれる彼の様子は、まさにその著作に書かれている内容と態度そのものであり、感銘を受けた。

「メッシュワーク」と「ネットワーク」

私たちはインゴルドが示してくれたコンセプトや、彼が提唱してきたその他のコンセプトを再読し、再考し、自分たちの在り方と向かおうとする方向と照らした。そして最終的に「メッシュワーク」の名がふさわしいと結論づけた。

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Ingold, T. (2007) Lines: A Brief History (1st ed.) Routledge pp82 Figure3.1

メッシュワークが何を意味するかというのは、いわゆるネットワークとの対比において理解することが容易いかもしれない。ネットワーク(図の下部)が点と点を結ぶ直線であるのに対して、メッシュワーク(図の上部)とは生成変化する線であり、くねくねと蛇行しながら、他の線と交わり、結び目を作っては無限にのびゆく、生の軌跡ともいえる線である。

インゴルドはまた、ネットワークとメッシュワークの対比を、輸送transportと徒歩旅行wayfaringとの対比としても説明している。現代を生きる私たちは、マッピングアプリや乗換案内を参照しては最短最速で目的地に向かうことが当たり前になってしまった。つまりそのような移動とは「輸送transport」であり、ある地点とある地点を結ぶ直線としての「ネットワークnetwork」として示される。

しかし本来の人間の移動とは、地を這うかたつむりのように、雪原をソリで移動するイヌイットのように、周囲の環境に対してそのつどに呼応しながら、開かれたありかたで世界と向きあい、予期せぬ他者と出会い、またどこかへとその歩みを続ける存在であったはずだ。そのような移動とは決して最短最速の移動ではない。古代から人間が営んできた探索的な歩み「徒歩旅行wayfaring」であり、その軌跡は「メッシュワークmeshwork」のような線となる。

効率主義と目的志向の向こう側へ

「輸送」的なありかたで目的地に向かうことがまさに、私たちから生身の経験を奪っているのではないだろうか。そのようなありかたにおいては、周囲の環境に注意をはらい、状況を受けとめる余裕もなければ、想定外の他者と出会い何かが生じる可能性もない。

現代社会は効率主義と目的志向に満ちている。そうした限界を自覚する人々でさえなお、呪縛から逃れることはとても難しい。「徒歩旅行」のようにして、目的地のない旅に出かけることには勇気がいるし、その場その場で最善の判断を続けることには大きな負荷がかかる。さらに、旅の「終わり」がいつになるかわからないとなれば、そんな無謀な旅に出発することを周囲もなかなか認めてくれない。

それでもなお、「ネットワーク化した世界」の限界を乗りこえ、そのような世界観からはこぼれ落ち、見えなくなってしまった重要な領域を再度すくい上げようとするのであれば、「メッシュワーク的な世界観」が必要になってくるだろう。

人類学とともに、オルタナティブな世界観を

私たちは人類学という、いわば効率の悪い学問を拠りどころとして、他者の理解を試みてきた。現場に長く滞在し、身体をもって何かを感知し、人びとと出会い、関わることから、何らかの気づきを得てきた。そのプロセスはまさに、人間の生が複雑に絡み合うメッシュワーク的な世界を経験的に描こうという試みである。世間では人間中心などと言われて久しいが、真の人間理解へと向かうアプローチは、未だ十分ではないと私たちは考えている。こうした状況のなかで、人類学はひとつの有効なアプローチになり得ると私たちは信じている。

「人類学の真の貢献は、文献にあるのではなく、生を変容させる力にある」とインゴルドは言う。私たちメッシュワークは、オルタナティブな世界観を携えて、人びとと出会い、自らも生成変化しながら、この世界をよりきめ細やかに描きだしたい。またそこで得られた知見を、社会を変容させる力へと変えていきたい。

ようこそ、メッシュワークへ、オルタナティブな世界へ。

私たちとともに、徒歩の、生身の旅へ、出かけませんか。

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