最近やけに増えてきた気がする令和版意識高い系の動画たち
いや、まぁ自分も結構好きで見ちゃうんですけど、こうたくさん増えてくると宗教味あって気持ち悪いなと思えてきてしまう。かつ、こうもたくさん増えてくると比例して見る人も増えてくる訳で、、、(いや、俺みたいな同じ属性の人たちだけで回ってんのかもしれんけど(たぶんそう))
自己啓発本的な気持ち悪さを覚えてくる。
(まぁ、だいたいみんな言ってること同じですからね)
結局この手のコンテンツって読んで満足、聴いて満足、知って満足、上辺だけ実践して満足、「意識高いこと実践して継続もしてる俺かっけー」みたいなオナニーで満足、、、みたいな、自己啓発本がたくさん売られてるのと同じ構造ですよね。
結局みんな見るから、それに飛びついてコンテンツを作る人がいる。
消費する側にいるだけでは何を実践したとても一緒で、得た情報を自分なりに言語化できて自分の人生に最適なフォーマットを見つけられて初めて「実践できた」と言える。自分もそうだけど、聴くだけ聴いて、メモするだけメモして、自分の言葉で言語化できているかといえばほとんどできていない。
たとえば「モンクモード」なるモードが流行っているらしいけれど、今の自分がそれをやろうとしても自分の言葉で咀嚼できていないから本質がわかってないし、本質がわかっていないからやろうとしても紹介されていたままのフォーマットで実践することしかできなくて、自分には適合せず徹底もできなきゃ、継続もできない。
もちろんYouTuberの人たちが紹介している内容は聴いてればわかる。でもそれは彼らなりに探究して見つけ出した本質であり、その見つけ出した本質を土台にしてやっている行動たちであり、彼らなりに伝わりやすいように工夫し、切り取られたものなのだ。断じて自分自身にとっての本質ではない。(もちろん参考にすべき素材ではある)
大体、人生を激変させるほどのすべての人に通じる共通の本質なんてものがあるんだとしたら、30分にも満たない1本の動画ですべてを伝え切れるはずはないし、千円ちょっとで買える文字数少ないうっすい書籍で伝え切れるはずがない。どんな情報であっても自分で咀嚼し、自分の言葉で言語化し、自分の経験や理想の未来を鑑みつつ思考を積み重ね本質を見つけ出し、適合する行動を始めて、継続して、そこで初めて最初に見聞きした知識の意味が全身で理解できる。
仏陀ですら長い時間をかけて弟子たちに根気強く説法を行い、弟子たちも長い年月をかけて教えを理解し、何冊かの記録に残し、東アジア各地に伝播して、それぞれの文化圏の中で様々な解釈が行われ、2000年近い歴史をかけて現代の仏教という教えになっている。これだけ膨大な時間をかけても仏陀の説いたこの世界の本質は皆それぞれにさまざまな解釈を行っている。でもそれらが間違っている訳ではない。本質とは自ずから見つけ出すものであり、自分が本質だと信じることができればそれが正解なのだと思う。(本来の意味とは違っているということはある。でも学術的に正しいかどうかを重視する必要があるのは学者と僧侶と檀那だけでいいよね。)
「本質に辿り着く = 知恵(知識と経験)× 思考にかける時間の量」なのだと、最近のそういう風潮を感じて思う次第。どっちかだけではダメで、どっちも伴っていないと自分なりの本質には辿り着けない。
これは意識高い行動だけに留まらず、ダイエットするにもそうだし、何かを勉強するにもそうだし、恋愛するにもそうなのだろう。たとえば僕は恋愛が極端に苦手だけれども、それは知識や思考は十分でも圧倒的に経験が足りない。経験の伴わない知識で思考をしても、それはただ机上の空論で御託を並べるだけに過ぎず、当然本質には辿り着けない。行動も改善できない。そういうこと。
こういう動画を見てると清々しくて気持ち良くなるから、そこで終わりにしないように注意しないといけないなーって思いますね。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?