2024-10-18 自己愛

自己愛には良い自己愛と悪い自己愛があるらしい。
参考動画のURLを喪失してしまったから、あとで探すとして。
自分が悪い方の自己愛に溢れて生きていたなと気付いた話。

このnoteを書いていることもそうかもしれない。
自分がどれだけ苦しんでいて、どれくらい悩んでいて、どれだけ不幸であるかを、誰かに聞いてほしい。愛に飢えた自分をわかってほしい。
どこまでいっても「自分」「自分」「自分」、、、なにをするにしても根底のさらに根底には愛に飢え傷つくことを恐れている自分がいる。

自己愛が強いこと自体を否定する気もないし、悪いことでもない

大前提として今の自分があるのはそういう愛に飢えた自己愛があったからだと捉えている。愛に飢えているからいろんな知識をつけて認めてもらおうとしてきたし、いろんな技術を身につけて認めてもらおうとしてきたし、仕事に本気になろうと思えたし、たくさん苦しい思いを抱えてきたから本を読み、いろんな動画を見て、多くの人の話を聞いて、今の自分が形成されてきた。

何も悪いことじゃない。
なにせ今でも十二分に幸せだと思って生きてるから、今の状態で満足できているのであれば問題じゃないくらいの話。

しかし僕はもっと高みを目指している。今よりもっと幸せを感じたい。
自己愛が強すぎる今の自分のままではさらなる高みの世界に行くことはできないから、根底のマインドを変えていく必要がある。
体感として1人で生きる上での最上級までは行けたと思うけれど、強い自己愛ベースで行けるのはたぶん今現時点がアッパーな気がずっとしていた。

今までの自分の土台を否定する気はないけれど、もどかしさや苦しさを感じているのであれば、もっと幸せを享受したいのであれば、ここは勇気を出して新しい自分始めたい。

利他の精神と自分の安売りは似て非なる

会社員として働いていたときによく上司たちから「言われたことなんでもタダでやりすぎないでね」とよくフィードバックを受けていた。当時はただひたすらに「自分のできることで喜んでほしい!!」という利他の気持ちで動いていたけれど、今になって振り返るとあれも自己愛ベースだったから、利他ではなくて自分の安売りだったんだろう。

正当な要求をして「じゃあやらなくていい」と言われたくなかった気持ちもあるし、「もう必要ない」と言われたくなかったという気持ちもあるし、何かを要求したことによって拒絶されるのが怖かったという気持ちもあるし、必要としてもらえるのが気持ちよかったというのもある。

こうして当時の感覚を言語化してみると確かに主語が全部"自分"になっちゃってる。自分が傷つきたくないから、自分を受け入れてほしいから、自分を認めてほしいから、自分が褒めてほしいから、、、やっていただけだから、それを客観的にみると"安売り"に見える。そして、実際に安売りしていたと思う。

本来の利他の精神とはどのようなものなのか?
今になって改めて考えるのは、「相手から求められていないことを自ずからやる。その上で喜んでもらえたらいいね。」というのが利他の精神だと思うんですわ。表でやること自体は自分本位で良い。でも根底には喜ばせたい誰かがいる。その文脈で動くのであれば自分が嫌われるとか、傷つくとか、否定されるとか、認めてもらえないとか、必要とされないとか、、、どうだっていい。自分がやることは「何ができるか?」を考え、行動し続けるだけになる。

いつもいつもうまくいかない恋愛

自己愛が強すぎるから、自分が傷つくことが一番怖い。
どんな相手だろうと相手のことを無条件に信じることがあまりにも怖すぎる。「愛しますよ」という保証が、言葉、行動、態度すべてにおいて相手から見られないと、信じることができない。明確な行動を起こすことができない。

自分の中では「この人を信じてみよう!!」と勇気を出して一歩を踏み出したつもりでも、実態は「え??ほんとうに信じても大丈夫??」とビクビクしながら壁に隠れて顔半分だけ出しているみたいな、、、そんな感じ。

そんなスタンスは相手からしたら「全然信用されてないなー。私のこと好きじゃないのかなー。興味ないのかなー。」と受け止めて、不安に思ってしまう。だから愛されないし、受け入れてもらえない。

自分の無自覚なスタンスが原因なのに、「勇気を出して信じたのに傷つけられたーー!!」とわーわー喚き始める(自分としては崖から飛び降りるくらいの勇気を出して信じたつもりだから仕方ないんだけれども)。相手への恨みつらみが湧いてくる。最後には関係すらもぶっ壊す。

そう気付いた上で過去の恋愛を考えてみると、起きている事象や相手の特徴は全て異なれども、大凡の流れはいつもいつもこのパターンだったりする。

やりたいことが具体的に湧いてこない

独立してからは自分の事業をゼロから作っていこうと思ったんだけれど、その思い自体が「起業して誰かに認めてほしい」的な受身スタンスから湧いてきたものだから、本腰を入れてこれをやっていこうと思える自発的な事業プランが全く湧いてこない。全く湧いてこないというよりは、湧いてはくるんだけれどもそれらを自発的に実行に移すことへの恐怖が勝るという感じ。

自己愛が強くて自分が最優先なのに、自分本位には何をすることができない。悲しきモンスター化しているが故の悩みである。

アイデアが湧いては恐怖が勝り、具体に落とし込む前に廃案になる。
そんなことをこの1年ずっと繰り返してきた。まるでランニングマシーンの上で必死に走り続けているような、、、いや、ランニングマシーンに乗ることすら怖くてランニングマシーンの前でウロウロして怯えてるみたいなそんな世界を見ていた気がする。

書いてて思ったけど、実際の行動でもそういうのめちゃくちゃ多いわ。
「〇〇したいなー」思ってできる場所までは行くのに、たとえばお店に入るとなるとすごく怖くなって、何回も行ったり来たりして結局その日はなにもせず家に帰る。ってのを何日も繰り返して1ヶ月くらいしてやっとお店入れた。みたいなこと昔からすごい多い。

自分本位に何かをすることによって、自分が嫌われるとか自分が変な奴に見られるとか自分が傷つくとかがとにかくめちゃんこ怖い。完全に1人で責任を負うことをしたくない。だから独立するときも辞める辞める詐欺を2年くらいしてしまったという、、、

機能不全家庭育ちの憂鬱

親から正常に愛されて育ってきたならばこんな根深い問題を抱えることはないかったのだろう。とはいえ事実は問題だらけの家庭に生まれ、そこで育ってしまったのだからメタに文句を言っても仕方ない。

その環境で生き抜くためにはネガティブ方面の自己愛を強くすることが必要だと物心付く前の自分は判断し、育つ過程でその戦略を強固にしてきた。あの環境で無垢な子どもが生存していくためには、ネガティブな自己愛の強さも必要なストラテジーだったのである。

機能不全家庭で育つ上ではたしかに必要な戦略だったかもしれないけれど、家庭という狭すぎる社会から一歩外の社会に出れば、この戦略はむしろ自分の首を絞めまくる。知らない人と話すのが怖い。自分の気持ちを伝えるのが怖い。学校では「何考えているのかわからない地味な奴」というレッテルを貼られ、すみっこ族として小中高の12年を過ごしたし、いじめ、ハブ、カースト最底辺、、、学校社会でのアンダーグラウンドは大体すべて体験してきた。

上京してからもベースは一緒。
他人とのコミュニケーション面は克服することができたけれど、それはあくまでもテクニックと統計という信用に値する土台を自分の中で作ることができたからであって、「自分の気持ちや意見を伝えることが怖い」「本音で話すことが怖い」はたぶん今も何一つ変わっていない。

自分のことしか眼中にないから新卒の就活は見事に失敗した。
大学院に進学してからも、できない自分がバレるのが怖くて、研究について教授に相談しに行くこともできない。研究室の前まで行くのに怖くなってドアを開けることができない。お金がなくて生活が苦しいことも周囲に打ち明けられない。無事に過労死と餓死の寸前を体験することになった。

僕の生後26年の人生が総じて地獄でしかなかったすべての原因は、おそらく悪い方面の自己愛の強さ。しかし悪いことばかりでもない、その地獄の中を生きていれば当然だけど何十回も死のうと考えたことがある。でも、死ぬことが怖いから、死んだ後に周囲からどう思われるかが怖いからひとつも行動には移せない。だから今日まで生きることができている。

この数年やっていた自己分析や自己改善はこの強すぎる自己愛をある程度制御して、上澄の部分を社会に最適化する作業だったと思う。現在は社会生活を過ごす上では仕事も人間関係もなんら問題はない。むしろ概ね良好。この自己愛の強さを生かしてスキルアップや仕事の成果に繋げてきたし、自分の本音は隠したままでも良いように傾聴スキルを磨き上げた。他にもたくさんそういうのがある。

だから最初に戻るけど否定する気は微塵もないし、悪いことでもない。

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