2024-11-24 「蓋を開けてみれば自分の方が幸せな日々を過ごしている」ということあるよね
大前提、幸せって誰かと比べるものではないから、"自分の方が"という表現もいかがなものかと思うんだけれど、なんかしっくりくる表現が見つからなかったから暫定的に"自分の方が幸せ"という表現にしておくことを先に注記しておきましょう。
目に見える幸せを羨んでは妬んでいた数ヶ月前の自分
記事のタイトル的に自己の優越感を主張するような内容、、、と見せかけて、実は自分への戒めです。戒めたいこととは、目に見えている"幸せそうな何か"が、真に幸せかどうかは本人にしかわからないということ。
最近だとSNSの発展もあって、毎日楽しそうな人、誰もが羨む幸せそうな人、仲良しカップル、仲良し夫婦、ゴージャスな生活、羽振りの良い金遣い、成功者、、、、挙げ始めたらキリがないくらい"勝ち組風"の人たちが登場している。THE 勝ち組を世間に向けて発信している芸能人やインフルエンサーではなくても、小さいコミュニティの中で、知人に向けて充実した日々や満たされた日々をSNS発信してしまうということはどこででもあると思う。
自分だってやっていることだ。
だからこそ、SNSで見える充実して幸せそうな人たちと、毎日悩んでばかりの惨めな自分、お金も恋人も家庭も何も持っていない自分なんかに劣等感を覚えている人というのが多いと思うんですわ。それは頭で理解していれば避けられる類のものではなく、自分事となるとどうしたって幸せそうな人に引っ張られてしまう。それを身を以て痛感した。
見ず知らずのマイクロインフルエンサーだったり、顔を合わせたら親しく話す程度の友達のことであれば頭の理解でどうにでもできるだろう。しかし、それが尊敬している人だったり、自分の理想としている人だったり、めちゃくちゃ仲の良い親友だったり、元恋人だったりしたらどうだろう。よほど神経が図太いかバカでもない限り誰しも心がざわつくと思う。
少なくとも自分はそうだった。
自分を好きと言っているのにも関わらず彼氏と付き合い続ける方を選んだ女がSNSに載せる、充実して幸せそうな投稿を見てひどく嫉妬してしまった。「なんで散々俺を傷つけ振り回したこいつが幸せな時間を享受していて、振り回されて傷ついた俺がこんな辛い気持ちで日々を過ごし続けなきゃいけないんだ!!神様は不公平すぎる!!」と、この1年強の中で数えきれないくらい何度も何度も何度も思った。
「SNSに投稿されているリア充投稿が幸せかどうかなんてことは俺にはわからない。」そんなことは頭では嫌ほどわかってる。でも、その目に見える"幸せそうな何か"は、自分には投稿することも体験することもできない。其の写真の先にいるのは自分ではない別の男だという、その現実がめちゃくちゃ辛かった。到底受け入れる心の余裕も、現実の裏にある本質を冷静に捉える心の余裕も全然なかったわけだ。
自分の幸せにフォーカスしてみて初めて気づけたことがある
10月、11月と自分の中のテーマとして持っていたものの中に「自分の幸せにフォーカスする」というのが1つある。自分に幸せに誰であろうと他人を介在させるのをやめると決心した。
そして2ヶ月くらい過ごしてみて、1日1日がすごい充実してるんですわ。びっくりするくらいに充実してるんですわ。別に友達にもほぼ会ってないし、至って変わらないいつも通りの日常を過ごし、淡々と仕事をこなしているだけではあるはずなのに、幸せかどうかの判断に他人を介在させないだけで、ものすごい充実感が生まれた。もちろん時折辛い気持ちを思い出して鬱っぽくなることもある。SNSを覗いて悔しくなるときもある。でも総じて充実感に満たされている。寝るときに自然と思うんだよね、「今日もやることやり切れた。幸せだなー、ありがたいなー」ってさ。「意識してやろう」とかじゃなく自然と湧き上がってくる。
こういう日々を過ごしてきて、ほんと唐突に、9月末に自分の生活圏に彼氏連れで姿を現し、一言も声をかけてくれることもなく隠れるように去っていったあの人の姿を思い出した。
SNSでは「彼氏とラブラブ仲良し楽しい幸せ〜」みたいな投稿ばかりしていたけれども、遠目に見ていた2人の姿は到底幸せそうには見えなかったんだよね。そりゃあもちろん2人の世界のことだから、外から見ただけの自分がその一瞬だけを見て幸せかどうかを判断できるものではないけど、少なくとも自分の目には「なーんだ。幸せそうじゃん♡」とは映らなかった。
2ヶ月前の自分は「なんだあいつ?俺に幸せいっぱいな自分を見せつけにきたのか??くそほどムカつくなー」としか捉えていなかったが、自分の幸せにフォーカスして日々の充実感を覚えるようになってきたときに、「あれ?もしかして実は逆だったんじゃないか??」とあのときの姿を思い出して自問してしまった。
状態だけを見たら一目瞭然
何度も言うとおり、他人が幸せかどうかなんてことは自分に判断できることではないから、妄想の域を出ない自問への回答になってしまうけれど、「幸せを羨んでいるのは俺ではなくて、相手の方だったんじゃないか?」と思ってしまった。
自分自身が「自分の幸せにフォーカスしよ」と決めたのはその出来事の全然後の話だったけど、生活や仕事で言えば特段行動として何かを大きく変えた訳ではなく、単純に「今手元にある自分の幸せ側に視点を合わせよう」というだけの話ではあったから、彼女が俺を覗きに来たときも外から見たら幸せそうに見えていた説がある。
まぁ、いつまでも推測の話をしていてもおもんないので、"自分の状態"という事実の羅列だけする。
・特別深く悩んでいることがない
・お金の自由を比較的手にできている
・時間の自由もだいぶ手にできている
・シンプルに仕事が楽しい
・実現したい方向性に向かってやれることをやり始めている
・朝起きれないとかタスクを後回しにしちゃうとか改善したい部分もたくさんあるけれど、そんな自分を一切否定していない
・恋人がいないとか、資産がないとか、そういうないことへの劣等感がひとつもない
などなど、本気で挙げたらもっと出てくると思う。
とにかく状態として、自己受容が一昔前よりも大きく進み、内的幸せを体感として得ることができるようになってきた。
この状態って、特定の誰かと比べるかどうかを問わず、、、というか自分1人で完結しちゃってる世界だから、たぶん他人から見たらめっちゃ幸せそうに見えるんですよ(知らんけども)。
加えて、「SNSに自分の日々の充実を書き留めよう」という長年染み付いていた習慣を今は全くやろうと思えなくなった。「Instagram削除したけどすぐ元に戻しちゃいそう、、、」なんて心配は全然杞憂of杞憂だったわけだ。自分の内側の幸せにフォーカスしていくと、「誰かに伝えたい」という気持ちがまじで消えるんだよね。この文章を書いていて気づいたけど、消えたことすら今の今まで自覚してないくらい自然に消えてた。
故に、逆説的にこうも思う。
友達・知人しかフォロワーにいないSNSで自分の充実をアピールしちゃっている人たちって、本人も気づいていないくらい深い部分では実はすごく苦しんでいるんじゃないか?って感じた。先に書いた「SNSに投稿されているリア充投稿が幸せかどうかなんてことは俺にはわからない。」ということが、頭で理解するだけではなくて体感としても腹落ちできるようになった。
「羨ましいなー」とか思わなくなったどころか、「誰かにアピールしないと"幸せ"と思えないのかわいそうだなー」とさえ思うようになっている自分がいることに、ちょっと自分でも驚いてる。
気楽なもんですわ
このnoteに日々あれこれと思考を書き出しているから、「すごい悩み苦しんでいるのか?」というと、むしろ真逆。ここでしかまとまって思考を吐き出さないから、ここ以外ではすごーーい健全な心理状態を保つことができている。
書き始めた当初はただ辛くて苦しくてどこかに発散したいだけだったはずなのに、たった数ヶ月でこの心理状態ですから、思考を文字起こしするパワーは絶大だなーと改めて感じさせられる。
やっぱ、少し前の自分がメンタル落ち気味になってきて、メンヘラ沼に片足突っ込んでしまったのも、お金がない頃からずっと継続してきたはずの書く習慣を、ここ数年やらなくなってしまったことがひとつ理由としてあったかもしれない。それくらいに絶大な力をこの文章を書いていても感じた次第。
おやすみ。