正しいか正しくないか。
今 目の前に伸びている道は
正しいのか 正しくないのか
みたいな話しを耳にすると
正しさをどこにみるのだろう……と
外から見た 『正しさ』を基準物事をみると
たぶん この問いが生まれた時は
世間一般的には『正しくない』ことの方が
多いのではないか…
だけど 内面を見た時は
きっと『正しい』のだと思う。
"自分の氣持ちに素直に生きる"を
実行している時 世間的な間違いが
セットでやってくる。
その時に どちらに従うのが
本来の自分なんだろ。
菅田将暉さんの『まちがいさがし』を
聴きながらそんなことを思った。
わたしが選ぼうとする道は
時に人を傷つけるものかもしれない。
それは 正しくないのか?
そこで動いた現実は
まわりの人の現実も動かす
キッカケなのではないか……
言葉を手放した時
この意思を伝えるために どんな行動を
とるのか……
ダイレクトに見せたものの方が
望む現実を生きれるのではないか。
心というものは とても厄介なシロモノだ
わたしに心があるなら
まわりにも心はある。
そちらの心はどうしたいのか? と
投げかけていくから 世界は動くのかもな。
今 わたしの前に伸びる 分かれ道
行きたい方向は わかっている。
だけど 『正しさ』が じゃまになる。
間違えても いいじゃないか
その先にまた 道が伸びる。
それが
すべて在る
であり
守られている
わたしの正しさを信じきったとき
その先に伸びる道。
それと同時に わたしの周りの人達にも
もうひとつの道が伸びる。
いわゆる コレが
すべては繋がっているという話しなのかもな。
心に過剰に反応するより
心に素直に生きる。
人のために生きるを
どの視点で見るのか。
自分の起こしたキッカケが
まわりにも影響を及ぼすのなら
一見 正しくないと思われる事象も
結果 対象の人たちの道に影響するなら
コレも
人のためになってる。
コレは都合のいい考え方なのだろか…
見方をかえれば
誰かのキッカケの影響で
今わたしの前に新たな道が伸びたという事
なのではないか。
YUKIKO