9:リハビリ病棟へ
写真は私が分かりやすい用のリハビリ表と縮尺。でかい!
夫との一件以来、大事な話をするときはボイスメモに取るようにした。そもそも前回のプレ話し合いから録音するつもりだったが、予定外に早く開始したから無理だったのだ。
それから以前にも増して何でもいいからLINEだったりTwitterだったりを打つ練習をした。それまでの事は振り返るとだいぶはっきり覚えているが日数で言ったらここまで2週間位である。
…しかし儘ならなさと疲れと怒りがその期間の大半を占めた、忘れられない時間になった。
このリハビリ病棟に移ることが決まってから私は集中治療室を出て、さらにリハビリのベッドが空くまで一般病棟の4人部屋に移り、ついにやっと点滴も抜けた。食事も制限なし(元々制限はなかったが)さらに見舞客が持ってきたものでも自由に食べていいことになっていた。まぁそりゃそうだ。健康診断的な数値には一切何も問題がなかったのだから。
部屋を移るその日まで、室内端坐位固定だったが移ったとたんその日から車椅子は撤去された。管轄的なこともあるのだろう。
「これからは車椅子ナシでいいよね」Aさんが言った。室内拘束状態から一気に、ゆくゆくは!?歩行可能状態に。…あいかわらず全てのことはナースコールで看護師さんと一緒、がセットだったが、本当は立てるのに座り続ける必要もなければ落ち葉つかみ棒を駆使しまくってゴミを捨てる必要もなかった。ベッドの脇だけなら立ち歩いてよかった。(トイレとロッカーという室内は未知の領域だったけど)とにかく希望のようなものを感じた。
まぁそれはそうとして4人部屋に移った私は他の入院患者さんを目の当たりにすることになるが、なかなかこれが大変だった。
まず 、夜になると叫ぶ、夜になると泣き出す。漏らしてしまう。わざと変なところで排泄をしてしまう。ナースコールで呼ばれては、それにちょっとずつ淡々と対応していく看護師さん。リハビリの時Aさんに「部屋がしんどいことになってるー」と言うと、「夜になると譫妄がはじまっちゃう患者さんとかいるからねー。当たる部屋とその時の入院してる人のタイプによるかな…」とのことだった。つまり、運か。
立ち聞きは良くないとわかりつつも会話が耳に入ってくる。「孫が産まれたばかりなのよ」という話をしながら「会いたいわ」とくりかえす脳の外科手術をしたばかりの女性、譫妄が始まると「どこだここは!俺が知らないうちにこんなとこ連れてきやがって!」とパニックで暴れる男性、看護師さんの女性にしつこく絡みながら、ベルトをはずせ(拘束され済み)!」とわめき何度も女性看護師をナースコールで呼び出す男性。
そのときは私は自分も極限状態で、やっと点滴がはずれたかと思ったらハードな睡眠不足になりホントにもう勘弁してくれ状態だったが、そもそもどこも悪くなかったら入院しないわけだから…しかたない。しかたない…そう唱えつつ患者が寝落ちするのを待った。
それからほどなくして私はリハビリテーション科のほうに移った。睡眠不足もMAXになっていたので「助かった…!」と思った。あとになって聞いた話だが、私は最初リハビリテーション科にうつらないでそのまま時期が来たら退院させるほうが良いのではないかとの意見が出ていたらしい。
それは、あまりにも入院した直後の脳の状態が酷かったため、また、右手の暴走など実際の行動に難があったためのようで、この状態ではリハビリに耐えられないのではないか、だとしたら急性期を過ぎたら頃合いを見て退院させて、家族の協力のもと家に帰したほうが良いのではないか…との意見が主だった。
たしかに脳の映像は、わかりやすくがひどかった。
前に書いたようにリハビリに移るにあたって話し合いがあって、そこで私は初めて説明を受けた。ゲルストマン症候群であることことなどは搬送された後の説明で母から又聞きのかたちで聞いていたが、実際画像を見せられて自分の脳の状態を目の当たりにしたとき、正直絶句した……。なんだこれ。梗塞を起こした真っ白な部分を中心に、白い光とモヤ。頭がそんな状態で覆われていた。
「これほぼほぼ死んでるじゃん!!!うわー…」と自分のことながらドン引きしているとこちらがそのあとの映像です、ともう一種類見せられたのはその二日後(くらいだったと思う)撮影したCT写真で、こちらはその真っ白な状態から正常な人に近い状態が戻ってきていた。
これはどういうことか。告げられた病名は可逆性脳血管攣縮症候群で、何のことかサッパリな感じなので、ものすごくざっくりと説明すると、脳梗塞が起こり血管が収縮状態になる→その間色々な部位に障害が出る→収縮が終わり脳の動きが再開する→機能が戻りだす…そんなタイプの脳梗塞だ。
最も重要な要素は、収縮時に損傷した部位は戻らないため、ほかの部位が代わりをすることになる。脳細胞はいちど死んだら戻らないけど他の部分が代替えで動くようになる、といったアレだ。基本完治しないのは前提で、リハビリによってどこまで復元できるか、といったところに賭ける感じだ。梗塞が起こった部位はちょうどゲルストマン症候群を起こす部分とかぶっていたため、そしてそれもひっくるめてこの脳の部位に起こるさまざまな障害を「高次脳機能障害」という。
本当にこれは、どれだけリハビリで回復させるかにかかっているじゃないか。そう思った。Aさんが「ちゃんと治して退院したい?」と聞いてくれたのはこのためだったのだと思った。
まだ若いですし伸びしろもありますし絶対にリハビリしたほうがいいと思います!と推してくれたのだそうだ。その一言がなければ多分今どうなっていたかと思うとぞっとする。そして移動してきたリハビリ科は今までとは真逆の雰囲気だった。
病棟は今までとは違い、高層階のほうにあった。具合の悪い人ほど低層階にいるのは緊急搬送などを考えてそのほうが効率的だからなのかななどと考えながら、リハビリ病棟に移ってまず最初に伝染病にかかっていないかのチェック、肌の調子や乾燥のチェック(疥癬等にかかっている老人もたくさんいるため。)があった。リハビリは毎日あった。
大体朝の6時には起床になる。着替え、洗面、歯磨きと済ませてラジオ体操。それから1日みっちりと作業療法、言語療法理学療法、理学療法のリハビリカリキュラムが始まる。面会時間は大幅に増えた。家庭復帰が目標なので、できるだけ家族と過ごす時間をとる為だ。
ナースコールをするのがそこまで苦ではなくなった。夫は時間が許す限り面会に来てくれた。リハビリに関しても面会に来た折に理学療法をしている様子を見学し、そこにいた療法士のAさんから「その感じだったら旦那さんとなら、この階だけなら病院内歩行OKで」ということになった。安静度がひとつ下がった。
夫と、面会に来てくれていた友人と初めて病院の喫茶室に出た。髪を院内で切ってもらって以来の部屋以外への外出だ。チョコケーキを食べた。なんだかものすごく感動した。それから間もなくイクラを密輸してもらい、いくら丼にして堪能した。リハビリ棟は見晴らしもよくこれからの毎日に俄然やるきが起きた。
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