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男性が「女性の話にはオチが無い」と感じる本当の理由


1. 導入

先日、このようなリプライをいただきました。

この方には申し訳ないですが、控えめに言っても「クソリプ」と見なして差し支えないリプライでしょう。

話し方や内容から、この方はおそらく女性。

なお、自分はヨハネス・フェルメールが描いた名画「真珠の耳飾りの少女」をアイコンにしています。この方が仰る「女のアイコン」はそれを指しているものと思われます。

特に何か返信するほどの内容でもなかったので、そのまま放置していたのですが、別の方からリプライがあったようです。

「何気ないポストに教養の有無が現れる。 アイコンとBIO画像を見れば何に関連しているのかがわかるのだが。めるめる氏も意地が悪いトラップを仕掛けたものよ」というリプライ。

言い換えれば「お前には教養が無いから分からないだろうが、自分には教養があるから何に関連しているか分かる」という内容です。これは、一般的にも「マウント」と称して差し支えないものだと思います。

ここまでは、特に何の変哲も無い普通のレスバトル。

Xではよく見る光景です。イーロン・マスク氏が「𝕏 is the PvP of social media(𝕏は対戦型SNS)」と言うだけのことはあります。

しかし、次のリプライが非常に特徴的でした。

このリプライは解説が必要だと思います。

① (相手の)想像外から(自分が)マウントしたら
② (自分の)想像外から(相手が)マウントしたら

2通りの解釈が可能ですが、②だとすると「虫どもが一斉に暴れてる」「かわいちょ♡♡」という文章とイマイチ整合性が取れません。

よって、①の解釈が妥当でしょう。

すなわち、この女性が1つ前のリプライで「モナ・リザを現地まで見に行った人間(わたし)にそのマウント取るのわらう」とポストしたことを、この女性自身は「マウントにマウントでやり返した」と認識しているわけです。

これは、人によってはなかなか奇妙に映る言動でしょう。

特に、多くの男性にとっては、この女性が何を言っているのか、何を意図しているのか、そもそも意味が分からないと思います。

一方で、多くの女性にとっては(この女性を肯定的に思うか否定的に思うかは置いておいて)何を言いたいのか理解できるのではないでしょうか。

『男性が理解できない女性の思考』として象徴的な会話です。

この一連の流れを掘り下げれば、男女の価値観や会話の違いにおける傾向がすっきりと整理できます。

ネットでよく見かける光景、単なるレスバトルとして「この女性だけがおかしい」で済ませてしまうのは、あまりにもったいない。

試しに文章を書いてXに投稿してみたところ、それなりのいいね数がついて反響がありました。

引用やリプライでいただいた感想を間に取り入れながら、加筆修正してnoteにまとめておこうと思います。

2. 男社会と女社会

男社会と女社会では、評価の基準が違います。

男社会では「何を為したか」が重要。
女社会では「何を消費したか」が重要。

男社会では「何を為したか」が評価の基準ですが、女社会では「何を消費したか」が評価の基準となります。

『モナ・リザを現地まで見に行った』という話は、男性からすれば「で?」「だから?」「それで?」「オチは?」となる。

言うまでもなく、モナ・リザを現地まで見に行っただけでは『ただの観光客』に過ぎず、何かを生産したわけでもなければ、何かを成し遂げたわけでもありません。あくまで、消費者の立場でしかありません。だから、これだけではどこにも『評価』できるポイントが無い。

「で、お前は何をしたの?」となる。

男社会では、その経験における「何を為したか」の位置づけが重要だから、男性は続きを促します。

『モナ・リザを現地まで見に行った』『そこから着想を得て今の仕事に活かしている』という話をすることで「凄いね!」「やるね!」となる。すなわち、オチがつきます。

あるいは、逆でも良いでしょう。

『今の仕事を頑張って結果を出した』『ひと段落して余暇ができたからずっと憧れていたモナ・リザを現地まで見に行った』という話でも「凄いね!」「やるね!」となり、オチがつく。

いずれにせよ、男社会では「何を為したか」が『評価』の基準となるわけです。話も中心にも「何を為したか」が位置づけられます。

しかし、女社会では違います。

『モナ・リザを現地まで見に行った』という話だけで女性は「凄いね!」「やるね!」となります。

あえて分かりやすさを優先させて嫌味ったらしい言い方をさせていただくと、女社会では「いかに高尚そうで高級そうなものを"お客様"の立場で消費しているか」こそが重要だからです。"お姫様"と言っても良い。

(ちなみに、"高尚そうで高級そうなもの"と"高尚で高級なもの"は異なりますが、本題からズレ過ぎるので、また別の機会に書かせていただきます)

男社会においても「高級な時計や車」は1つのステータスとなりますが、それは「何を消費したか」が『評価』の対象になっているのではなく、それを買えるほどの努力をして結果を出したという形で、間接的に「何を為したか」が『評価』されています。

何の結果も出していないのに豪遊していたら、男社会では「金持ちのボンボン」「親の七光り」のような『評価』になる。

一方、女社会では「何を消費したか」そのものが『評価』の対象です。

極端な例ですが、ホストに大金を貢ぐ「夜職の女性」は貢いだこと(消費したこと)そのものが『評価』の対象になっており、他の女性たちとマウントを取り合っているのは「いかに金を使ったか」です。

決して、それを買えるほどの努力(沢山の男性と"関係"を持ったこと)が間接的に『評価』されているわけではありません。

そして、可能であれば「努力をして1億円を得る」よりも「何の努力もしないで1億円を得る」という方が、女社会では『評価』が高くなります。

分かりやすいので夜職を例に出しましたが、一般女性も基本は同じ。

ちょうど良いマシュマロをいただいたので紹介します。女性は「推し活」という言葉に対する男女の反応の違いです。

女社会では「何を為したか」は『評価』の対象になりません。

むしろ、男社会のように「何を為したか」を最初から積極的にアピールするのはマイナスポイントであり「奴隷みたいに苦労していて貧乏くさい」と見なされがちです。

だから、女性は「(まぁ私にとっては普通のことで何の苦労もなくいつも通りの日常の延長線上でしかないから騒ぐほどのことでもないけど)モナ・リザを現地まで見に行ったよ」という話し方をします。

そこに至る経緯や背景は、最初の時点では省かれるわけです。

男社会におけるオチの部分は、女社会では「凄いね!」「やるね!」という『評価』が最初に済んでから、語られることになります。

相手に言われて「そんなに聞きたいなら答えるけど」という姿勢で、あくまで聞かれたから、求められたから、仕方なく話す。これにより『評価』が保たれて、オチまで話すことができるわけです。

女社会ではこの一連の流れが『会話のプロトコル』として、無意識レベルで共有されています。

【女社会における会話のプロトコル】
導入を話す → 最初に評価 → 続きを促す → オチまで話す

この『会話のプロトコル』が、男社会と女社会では決定的に異なります。

いわゆる「女性は共感脳」「男性は解決脳」のように言われている、男女の違いの本質は、会話の内容ではなく「順序」にあるのです。

3. 会話の順序

さて、ここまで読んでいただいたことで、このような疑問を抱かれた方もいるのではないでしょうか。

「いや、男性も『モナ・リザを現地まで見に行った』というだけの世間話や雑談なんて普通にするやろ」

結論から言うと、男性も世間話や雑談をします。

しかし、それは女性のように『モナ・リザを現地まで見に行った』で終わりません。相手に促されなくても、そこから『そこでこんな出来事がありこんな体験をしてこのように思った』とオチまで話が続きます。

いわゆる、エピソードトークです。

話が続いたからと言って、内容は『ただの観光客』に過ぎず、何かを生産したわけでもなければ、何かを成し遂げたわけでもありません。あくまで、消費者の立場でしかありません。

ならば、男社会において「何を為したか」に該当しないエピソードトークは、どのような『評価』となるのか。

その話が「面白い」か「面白くない」か、です。

話そのものが現在進行形で「何を為したか」の真っ最中であるわけです。相手を楽しませるという目的において。

その話が面白ければ「相手を楽しませるという目的を達成した」として「何を為したか」を満たして「面白い」と『評価』される。

その話が面白くなければ「相手を楽しませるという目的を達成できなかった」として「何を為したか」を満たせず「面白くない」と『評価』される。

『評価』と言うと何だか大げさな感じがしますが、テンションで言えば「それは草」「ウケる」くらいの軽いものも含まれます。しかし、そのくらい軽い『評価』だとしても積み重なることで「面白い奴」「面白くない奴」に分かれていきます。

女社会と決定的に異なるところは、男社会では話が全て終わったあとに『評価』が下されるところです。

【女社会における会話のプロトコル】
導入を話す → 最初に評価 → 続きを促す → オチまで話す

【男社会における会話のプロトコル】
導入を話す →  続きを促す → オチまで話す → 最後に評価

男性から見れば、女性の会話は「結論ありき」や「感情論」のように見えるかもしれませんが、会話の構成要素自体は変わりません。

会話の順序が違うのです。

恋愛の話だと、もっと分かりやすいかもしれません。女社会では、まず最初に「それは相手が悪いよあなたは悪くない!」という『評価』を定めてから、続きが促されます。その後で、オチまで話すことになる。

一方で、男社会では「両方の主張を聞いてみないと分からない」という姿勢が一般的です。片方の主張しか聞けない場合でも、男性は可能な限り全ての情報を俯瞰してから、なるべく客観的な判断をするように努めて、最後の最後に『評価』を定める傾向にあります。

女性から見れば、会話における男性の対応は「最初に評価を定めてくれないと続きが話せないのに、評価する前に『で?』『だから?』『それで?』『オチは?』と言われても困るんだけど」となるでしょう。

これが『共感』の正体です。

女社会における『共感』とは「最初に評価を定めてから続きを促すこと」であり、男社会における「評価するという目的のために続きを促すこと」とは真逆なのです。

だから『誠実』の基準も真逆。

男性からすれば「全ての情報を聞いていない時点で評価を済ませるなんて不誠実だ」と思うかもしれませんが、女性からすれば「最初に評価を済ませて安心させてあげないのは不誠実だ」となります。

男性が女性と会話するときは、最初に『評価』を定めてしまうことが重要です。『評価』を定めずに話を聞き続けても「最後に評価するために聞き続ける」が「評価しないまま話を聞き続ける」に変わっただけ。

『女の話は相槌を打っておけばOK──を鵜呑みにして失敗する男性』が多いのはこれが原因です。評価を定めずに相槌を打つだけでは「……話、聞いてないでしょ」と女性は不機嫌になります。

気をつけましょう。

女性が男性と会話するときは、最後に『評価』をするように我慢しましょう。最初に『評価』を定めてしまうと、男性は「話の腰を折られた」と感じて不機嫌になります。

じっくりと焦らずに、話のオチが来るまで待ちましょう。

会話において大切なのは『評価』「タイミング」なのです。

4. リスクと責任

男社会と女社会では『会話のプロトコル』が異なります。

『女性の話は長くなる』という傾向にあるのも、最初に『評価』が定まってから、いくらでも延々とオチを付け足せるからです。

男社会では順序が逆であるため、『評価』が定まった後にオチをつけたすのは『言い訳』と見なされます。

女性が『想像で相手の話に背景を好き勝手に付け足す』ということをやりがちなのも、最初に『評価』が定まっているので「それ相手は絶対◯◯だって。っていうか、△△してそう」「それ分かる、△△もそうだけど××もやってそう」うわ、やってそー!」のような『お互いに好き勝手なオチを付け足し合う』という会話が行われます。

女性からすれば「当たり前のコミュニケーション」であるかもしれませんが、男性から見ればかなり奇妙な会話に思えるでしょう。

男社会においてはオチを『評価』されるので「相手の話に自分がオチをつける」というのは、リスクが伴う行為です。

そのオチが面白ければ「話を盛り上げてくれる面白い奴」と『評価』されますが、面白くなければ「話を奪って出しゃばってくる奴」と『評価』されます。良くも悪くも、男社会では発言した個人の責任となるわけです。

テレビでお笑い芸人がやるような「オチの応酬」は、盛大にスベって全てを台無しにするリスクと責任が伴うという前提があるからこそ、本来は「個人単位で行うことをチームプレーで行っている高度なやり取り」と見なされて「面白い」と『評価』されるわけです。

女社会において、最初に『評価』が定めてから行われる『想像で相手の話に背景を好き勝手に付け足す』『お互いに好き勝手なオチを付け足し合う』という会話とは、やっていること自体は似ていても、その本質は全く異なります。良くも悪くも、女社会では発言のリスクも責任も会話の参加者全員に分散されているのです。

特に悪い面としては、SNSでは女社会のような『想像で相手の話に背景を好き勝手に付け足す』『お互いに好き勝手なオチを付け足し合う』というやり方が猛威を振るっており、そのリスクと責任が会話の参加者全員に分散されていることから、対処が難しい問題でもあります。

例えば、草津町の虚偽告訴事件においても、風評被害に加担した人間の大多数は責任を取っておりません。取らせる方法も無いでしょう。

はっきり言って、男社会のような最後に『評価』を定めるやり方は、SNSの「速度」に全くついていけていません。

女社会のように最初から『評価』を定めるやり方が、SNSでは圧倒的に投稿が拡散する速度と範囲で勝っています。しかも、低リスク。

また、現代社会において生産者の立場は弱く、消費者の立場は強い。これはもう時代の宿命です。良し悪しの問題ではない。

「何を為したか」で評価される男社会の基準よりも、「何を消費したか」で評価される女社会の基準の方が、現代社会における「強さ」と相性が良い。

例えば、2024年12月に起きた「ラーメン豚山騒動」において、最終的に女性の方が「この度は私のその場の気持ちで発言したポストで多大なるご迷惑をおかけしてしまい本当に申し訳ありませんでした」という謝罪をしましたが、だからと言って、何かペナルティを受けたりしたわけではありません。

そもそも「いち消費者のクレームに企業が表立って声明を出す」という事態そのものが、冷静に考えると異常な社会です。「いち消費者」と「何人もの人間が勤める企業」が対等な立場にあるわけですから。

男性は「消費する」という行為の「強さ」を舐めている節があります。甘く見てはいけません。

『破れないストッキング』の論争においても、女性たちは「靴下屋を謝罪させること」に成功しています。しかも、その過程における訴訟リスク等は、無数の女性に分散されている。

事実として、女性は最初に『評価』を定めるやり方を、消費者の立場から集団で行うことで「結果」を出しているわけです。

男性からすれば苦々しい事実だと思いますが、少なくとも、短期的には非常に低リスクかつ即効性があるやり方です。

しかし、長期的に見たときに、最初に『評価』をするという女社会のやり方が、本当に女性自身のためになっているのか、疑問が残るところではあります。安易に「男性も女性の真似をせよ」とは言い切れません。

例えば、女社会で『陰口』が多くなるのも、最初に『評価』が定めてしまうことの弊害です。既に『評価』が定まったものを表立って覆すことはできないので、本人のいないところで「実はあの時おかしいと思っていたんだよね」と後出しで語られるわけです。

男性からすれば「嘘吐き」「裏切り」「コウモリ野郎」のように見えるかもしれませんが、女性からすれば「相手が受け取った評価を表立って壊さないため」という誠実な配慮であり、同時に「自分の立場を守るため」の行動でもあり、なおかつ「見るからに不服そうだった人に自分も同じ立場だと告げて孤立させないため」という、ある意味で『三方よし』の処世術です。

(まぁ、バレたときが色々と大変ではありますが)

女社会では「既に定められた評価の中でどう振る舞うか」が問われるわけです。だから、女性の言動は「察する文化」になりがち。男社会における「良い評価を受けるためにどう振る舞うか」とは対極です。

男性視点では、女性の言動は著しく不誠実に見えると思いますが、これは男女で『会話のプロトコル』が異なるから。

これが、男性が『女の話はオチが無い』と感じる理由です。

女性の会話は『評価』が最初。
男性の会話は『評価』が最後。

男性も女性も、人間関係とコミュニケーションで悩んでいる方は、まずは「自分はどんな順序で会話しているだろう」と意識してみてください。

会話の順序をいつもと変えてみたり、相手の順序に合わせてみたりすると、新しい発見があるかもしれません。


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