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好きであること

最近気付いたことがある。
「好き=救われる」ということだ。

私はずっと、「好きなものは何か」という問いにうまく答えることができないでいた。

というのも、私には側から見たら趣味だと言えるものがたくさんある。
例えば、ダンス、映画、音楽、お笑い、写真、ファッション、などである。
しかし実際の私の気持ちとしては、素直にこれら全てを好き、趣味だと言うことに違和感があるのだ。
なぜなら、好きでいるために努力を伴うものがあると感じていたからだ。

例えば音楽は、音楽好きな恋人に影響されて聴くようになった。
音楽を好きだと公言している人には、自ら演奏していたり、ものすごく広範囲にアーティストを知っていたり、昔から最近まで隅々と聴いていたり、とにかく「私は音楽が好きなのだ」という主張に近い情熱を感じてしまうのだ。
私は音楽を聴くし、いいなと思う曲やアーティストもいるけれど、音楽が好きというアイデンティティにするには、たくさんの人や曲を知らないし、楽器の良さも違いもあんまり分からない。
なにも分からない私が、音楽を好きなんて言ってはいけない。
言ったら音楽が好きな人に失礼だ。
こんなふうに思っていたのだ。

他のものについても同じだ。
踊ることは楽しいし、見てかっこいいとも思うけれど、自分から上手な人を探しに行ったり暇な時間に見に行ったりしない。
映画で心を揺さぶられる時間が心地良いと感じるけれど、たくさん見ていると疲れるし、基本的に邦画しか見ない。
お笑いを見て笑う時間が幸せだし、M1は一年で1番楽しみな番組だけれど、若手芸人をたくさん知らないし、一回戦から全部ネタを見るほどの熱量はない。
写真部で過ごした3年間は私の1番の青春だったし、今も素敵な光をフィルムにおさめていたいと思うけれど、カメラを持ち歩くのをよく忘れるし、お金がもったいないなあと思うこともある。
可愛い洋服をたくさん持っていたいし、おしゃれな自分でいたいけれど、お金には制限があるしブランドをたくさん知ってるわけじゃない。

私はずっと、「好き」だと公言したら頑張らなくちゃいけなくなるのが怖かったのだ。
それでいて、頑張って好きでいようと思うものは本当の好きではないと感じていたのだ。

しかしこれらに共通することがある。
私自身が、これらに救われたことがあるということだ。

学校で嫌なことがあっても、踊っている時だけは忘れられた。
息がしづらいのに涙を流せなかった時、映画を見たら自然と涙が出た。
心地よく流れるメロディと寄り添ってくれる歌詞のおかげで心が軽くなった。
何も楽しめない時に、自然と笑ってしまう自分がいた。
私の映し出した大切な人たちの笑顔が私を笑顔にしてくれた。
可愛い服とネイルで外に出たら明るい自分でいられる気がした。

好きでいることは頑張ることではない。
救われたという事実があることが、好きであるということなのだ。
少なくとも私の中ではそれでいい。

私を救ってくれるものがあって、よかった。
救われる幸せに、これからも浸っていたい。

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