「結婚」はしないと思ってた。

「結婚」なんてしないだろうと思っていた。
それだから、まだ付き合ってもいない彼から唐突に
「なんか……結婚したいですね」
と言われたときは、なんて気の合わない人なんだろうかと首を傾げたものだった。

「結婚は……、どうでしょう」
わたしは答える。
もちろん、そういった幸せのかたちがあることは知っているし、大切な誰かが誰かと結婚するとき、わたしは心の底から「おめでとう」と言うことができた。
けれど自分のこととなると、どうだろう。なんだか途端に妙な気持ちになるのだ。きっと、「自分ではない誰かと、ひとつのかたまりのようになる」
ということに、どうにも違和感があったのだと思う。

たとえばそれは、「あそこの家」と呼ばれることや、「ごはんはどちらが作ってるの？」だなんて聞かれることだ。
食事なんて、好きなときに好きなものをそれぞれ食べればよいし、もし仮にそれがふたりともナポリタンならば、手の空いてる方が買うなり作るなりすればいいだけのことなのに、と思った。
たまに「今日はいっしょだね」「おいしいね」という方が、なんだかとてもたのしそうだもの。
それなのに、なぜだかふたりがいっしょくたになって。苗字を同じにして、親戚がぱっと２倍になる。時間や食事を共にし、自分や仕事がどんどん離れていく。
わたしが思い描く「結婚」には、いつもそんな無理の多い生きづらさのようなイメージがまとわりついていたのだ。

そして、もうひとつ。
「家」や「暮らし」をふたりのものにすることで、いろんなものが“薄まってしまう”のではないか……と思うとき、わたしはそれがとても怖かった。
たとえば切ないと感じること、さみしいと感じること。良い心地だと浸るような気持ち、何かを欲しがる気持ち。そんなものもふたりで生きていれば、なんだか些末なものになってどこかに消えていってしまうのではないかと心配した。
そして家族を持ってもそうならずにいる人の修錬とは相当たるものなのではないだろうか、と想像する。
思いやりながらも依存し過ぎず、「自分は自分で」「相手は相手で」……と知性と強い心で整理できている人のことだ。

実際に、
「結婚がだめなら、じゃあ一緒に暮らしましょう」
そう言われて、彼とふたり同じ部屋で暮らすようになってからというもの、最初の数ヶ月は途端に「書きたいこと」「書けそうなこと」がみるみるうちに減ってしまって、仕事に困った。
もちろん忙しさや慣れない生活にペースが乱れていたところはあるけれども、それ以上に、部屋は日常と“ほどよい気持ち”でたぷりたぷりと満たされ、なんだかぬるくて薄い液体にふやふやと浸かっているような心地がしていた。
ひとりだったから感じられたこと。
ひとりだからふと思い出せたこと。
そんなことも忘れて、わたしはただ凡庸へ凡庸へと流されていくのではないだろうか。
生ぬるく鈍感なわたしの書くものが、誰かの心にそっと残ることなどあるのだろうか……。そんな大きな大きな「不安」と半ば3人暮らしをしているような、そんな気持ちでさえいたのだ。

だからわたしは、「結婚」はしないだろうと思っていた。

けれども彼は、めげない人だった。

最初にふたりで食事をした日、彼は
「じゃあ、『大豆田とわ子』うちに見にきませんか？」
と言った。その頃、テレビでは『大豆田とわ子と三人の元夫』というドラマが放送されていて、わたしたちはそれに大層ハマっていた。それぞれの視点から「あれがいいねえ」「これがいいねえ」と話すのがとても楽しかった。
けれどもその週、わたしはそれを仕事で見逃してしまい、偶然にも彼もまた同じ状況で「見れなかった最新話」に恋焦がれていたのだ。
「今週の分、早く見逃し配信で見たいですね」
「そうですね」
そこでお開きになるかと思ったけれど、彼はそうはせずに、
「じゃあ、『大豆田とわ子』うちに見にきませんか？」
と言った。

付き合ってもない男性の部屋に上がり込むのは、普段ならいささか抵抗があった。あったけれど、その抵抗を和らげてくれるほど彼はとても「ちゃんと」した人に見えていたし、何よりもわたしは『大豆田とわ子』が早く見たかった。
「じゃあ、『大豆田とわ子』だけ……大豆田とわ子見たら帰ります」
「もちろんです。他意はないので、そうされてください」
スリッパを履かせてもらっていてもわかる、ひたひたと冷たい床のひんやりとした広い部屋で、わたしと彼は『大豆田とわ子』を1話だけソファで見た。そしてそれについて少しだけ話して、
「お邪魔しました」
とわたしは約束通り荷物をまとめて部屋を後にした。

彼は手を握ることも、妙な雰囲気を出すことももちろんなかった。ただ、送り届けてくれた改札のところで
「なんか……結婚したいですね」
低い声でそう唐突に言ったのだ。
「結婚は……、どうでしょう」
戸惑いながらわたしは答える。そう、結婚についてはあれこれと思うことがあったし、何よりもわたしたちは恋人同士ではない。そんな話をする関係ではないからだ。
「結婚がだめなら……じゃあ一緒に暮らしましょうか」
本当におかしな人だと思った。
「もっと……お互いを、、知ってからがいいですよ」
「それなら一緒に暮らすのがいちばんですよ。それ以外のことはだいたい知っています」
ゆっくりと首を捻ると、彼も真似るようにゆっくりと同じことをした。経験不足なわたしはそんな不思議な誘いの対処法をもちろん持ち合わせていなかった。
「それは……また追々考えましょうか……」
「わかりました。もう（時間も）遅いですもんね」
「……？ 今日はありがとうございました」
「こちらこそ。気をつけて帰ってください。ではまた来週」
そんなふうにしてふたりの関係は始まって、それからも彼は事あるごとに、
「部屋を探そうか」
「一緒に暮らすと楽しいですよ」
と言い続けた。あまりにも自然と言うものだから、最早それに「ドキリ」とすることもいつしかなくなり、なんだかそれはそれでいいのかもしれないな……とさえ、うっすらと考えている自分に気づき、ときどき戸惑ってしまうほどであった。

けれど、いつからかわたしたちは本当にデートの合間に内見を重ね、やがていっしょに暮らし始めてしまうのだから、それは本当に不思議なことだった。
コマでも付けたように、コロコロと毎日は勢いよく進むのだった。

そして、つい先日のことだ。
かつてわたしが暮らしていた「調布」の街を舞台にしているから—— という理由で選んだ映画を、共に暮らす部屋でふたり見た。
主人公のふたりはまさにコロコロと転がるようなスピードで惹かれ深く愛し合い、それなりの月日を共に過ごし、ちょっとだけみっともなく静かに別れた。「結婚しようよ」と言って、涙しながら別れるのだった。
そんな結末にわたしたちは盛大に泣いた。
そして目を腫らした次の日。近所のちょっといいビストロでホワイトアスパラを食べた帰り道のことだった。家の前の細い道路で彼はまるで昨日の映画の菅田将暉みたいに、
「結婚しようよ」
といつになく真剣に言った。映画の影響を存分に受けていることは、夜の薄暗さのなかでも明らかだった。
「そうしようか……」
やっぱり映画の影響を存分に受けていたわたしは、有村架純にでもなった心地に浸りながらも、映画とは違った答えを告げる。
劇中の若い二人の別れから、現実の若くないふたりは「この人と離れてはいけない」と学んだのだ。

かくして、わたしたちは夫婦になってしまった。

「結婚」は恐ろしい。
違う人間なのに、いっしょくたに混ぜこぜにされて、だけど心だけが離れてどこかに行ってしまうことさえある。
同じ親から生まれたわけでもないのに、「あそこの家」「あんたの主人」「あんたの嫁」だなんて言われ方をして、途端に今までの関係じゃなくなるのだ。

けれど、その人は「家と結婚するのじゃないから」という話をそれは丁寧にしてくれたし、「走れる方が走ろう」と無理に二人三脚にはしない人だった。
それにふたりの生活も、3ヶ月も過ぎてみれば、いっしょに居たって互いはまるで違う人間で。さみしいことなんて山ほどあって、初めて知る喜びとも、もどかしい気持ちともたくさん出会った。
薄まるどころか、部屋は暮らしはふたり分に広がったのに、ふたり分の出来事や、ふたりで居るからこそ生まれる想いで溢れかえり、ちっとも薄まる気配もなかった。
これはわたしにとって、とてもとても意外なことだった。

あの日見た映画にも、
「恋はひとりに一個ずつあるもの」
という台詞が出てくる。わたしは今さらになって「たしかに」とひとりごつ。どこまでいってもふたりはひとつになりようもなく、別々の人間だ。だからこそ、腹が立って、切なくて、補い合えて、無性にかわいい。
わたしと彼は違うからだ。そんな彼にわたしが恋をしていて、また彼もそうであったらいいなと思っている。けれど本当のところはわかるはずもない。それぞれが相手にただそれぞれの感情を持っているのだ。
ホワイトアスパラだって、ひとり1本ずつ食べた。
無理にひとつにする必要もまるでない。今晩はふたりで「鍋焼きうどん」を食べたけれど、明日はまた別々だ。それでいいし、そんなのがいい。

けれど、わたしは今、母の日に渡すブーケを
「さて、どんな色にしようか」
なんて考えながら、ほんのちょっと浮かれている。
母は8年前に亡くしたけれども、もう一度、「おかあさん」と呼べる人ができたからだ。 そんなしあわせはしっかりと分けてもらっている。

「結婚」なんてしないだろうと思っていた。
けれど、隣ですやすやとよく眠る人は気づけば「わたしの夫」になっていた。言わないけれど、こんな日がいつまでも続けばいいな、と心から思う。電気を消したって、ほら、こんなにあかるい。