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母を喪う

親を亡くす悲しみとは、どんなに深いものだろう。
友人のご両親の訃報が届くことが増え、
そのたびに、悲しみに暮れる友人へどのような言葉で弔意を示せばよいだろうと悩んだ。
大切に思う友ならば尚更、こんな時こそできるだけ心に寄り添いたい。
「ご冥福を」「お悔み」の定例文でなく、何かもっと。

一緒に暮らす家族、実家の親。
自分にとって一番、濃い存在を亡くす悲しみ。
それがどんなものか、目を閉じ考えてみたが到底、想像できるものではなかった。
慮ろうとすればするほど、亡くした経験のない者がそうしようとするおこがましさが返ってくる。
だからこそ、定例文はあるのだろう。

春に母を亡くし、ついに私もその悲しみを実感することになった。
それは、冷たい水の雫がポタポタと胸の奥底に落ち、心の芯を凍らせるつらさだった。

人によっては、もっと狂乱めいたものになるのだと思う。
くも膜下出血で急に目の前でお母さんが倒れ、二週間後に亡くした友人は今も深く心を痛めている。

うちの母の場合は、もう二十年前から脳梗塞を繰り返し、少しずつ身体が不自由になっていた。
家事は父がするようになり、母の手料理を食べたのももうずいぶん昔の記憶。
桑田さんの曲「MY LITTLE HOMETOWN」に
♪ママのカレーライスは
♪More,more,more食べれない…っと
という一節があるが、
私は母が存命でも、もう食べることはできなかった。

二年前に大きな脳梗塞を起こし、以来寝たきりの状態で、二十四時間看護のサービス付き高齢者住宅へ施設に入居した。
月々の費用はかかるが、大きな手術をした際に、医師から「一年…一年半だろう…。」と余命を聞かされ、両親の貯蓄を使うのは今だと思った。
訪問歯科や訪問リハビリも契約し、母の為できうる限りの良い環境を整えた。
父も献身的に毎日、施設を訪れ、母を見舞った。
その甲斐あってか、まずまず穏やかに過ごせていたが、それでも三カ月~半年に一度は体調が崩れ入院する。
いつどうなっても仕方がないと私も覚悟ができていた。
それが、何度緊急搬送されても、それなりに回復して退院する母の生命力!

昨年、母が大量吐血し搬送された時は、深刻な状態だった。
血圧がかなり低く、励まそうと握った手の冷たさにゾッとした。
母はすがるように私の手を握り返し、じっと私を見詰める。
平時はぼんやりとした表情で、こんなふうに母と目が合うことは少ない。
施設へ頻繁に通う私を娘だとわかってくれているのかと思うこともあったが、その不安が吹き飛ばされた。
母は私を家族だと認知している。かけがえのない特別な存在だとわかってくれている。
緊急事態ではあったものの、そう実感できたのが私にはとても嬉しかった。
この時は輸血で血圧も回復し、しばらく入院した後、施設へ帰ることができた。

思えば、この三年ほどの間、あちこちの病院へ親が入院し見舞いに通った。
救急車に同乗するのにも慣れてしまうくらい。

昨年からは入院する際に医師から、治療に限界があることをはっきりと告げられるようになった。
そして退院時には、また入退院を繰り返すだろうとも言われ、実際にその通りになった。
余命とされた一年半を過ぎていた。

施設のナースさんやヘルパーさんが母に大変良くしてくださったこと、
そして父が毎日、施設に通って顔を見せ、手を握り、車椅子を押して施設内を散歩させたこと、
それらが母の寿命を延ばしたと思う。
そして、何より母自身が生き延びようと歯を食いしばっていた。

脳梗塞の麻痺により、どんどん身体が不自由になり、そして更に手足が拘縮し動かせなくなっていた。
言葉を話せず、理解することも難しく、
口から飲むことも食べることもできない。
あんなに食べることが好きだった母なのに。
叙情的な言葉を歌うように話す母なのに。

そんな状態で生きることの方がつらいと思う人も多いだろう。
だけど、母の横顔は何とも言えず気高かった。
命ある限り、生き抜いてやろう。


その夜、私はいつもより早く入浴を済ませ、就寝しようと歯磨きしていた。
コップの水で口をすすぎ終えた時、スマホの着信に気付いた。
見知らぬ番号だったが、夜半に唐突の電話…嫌な予感がしてすぐに電話に出た。
やはり施設の職員の男性からだった。妙に慌てた口調だ。
これは良くない。下腹にグッと力をこめる。

「今、お母さんが…呼吸停止しました。これから緊急搬送します。」

絶望的な言葉の衝撃はみぞおちにズドンと響き、息ができず返事をしようにも声が出なかった。
それでも懸命に声を絞り出し、「よろしくお願いします。」とだけ言い、すぐに寝室へ向かい主人に伝えた。

こういうことが急に起こることは想定していた。
していたからこそ、何時スマホにどんな連絡が来るかもしれないと身近に置いていたのだ。
しかし、ついに…ついに…かと思うと、さすがに気が動転する。
主人が車を出し、夜の道を飛ばしてくれた。
私は助手席でスマホを操作し弟に連絡をつける。

病院には施設のナースさんも駆けつけてくれていた。
呼吸停止と聞いたので、もうだめだとばかり思っていたが、母は検査中だと言う。
施設ですぐに蘇生術を受けられたので息を吹き返したらしい。すごい生命力!

弟が父を連れて病院へやって来た。かなり待った後に救急担当の医師から説明があった。
検査をしたが今のところ悪いところはないという意外過ぎる言葉に脱力。
ホッとした。
計器を見ると確かに、母は血圧や酸素量、脈拍も正常値だった。
(すっかり私も計器の数値の見方がわかるようになってしまった。)
しかし、意識がない。
これまで何度も緊急搬送されたが意識を手放したことはなかったのに…。

そのまま母は入院となった。
翌日、見舞いに行き、循環器内科担当医師から話を聞くと、事はそう易しくないことがわかった。
入院に必要な物を取りに施設へ行き、施設のナースさんに医師からの話を伝えると眉を寄せ、
「…それは…ここ一週間が山ですね。」と言われ、切迫した状況を強く認識した。

一週間…。
ならば、毎日見舞いに行こう。父を連れて。
意識がない母を見舞うのは、私達もつらいけど。
でも帰り際、母の耳元に大きな声で呼びかけるとビクッと肩を揺らして反応していた。
聴こえている。
母は聞いている。

帰宅し、玄関を開けたと同時にスマホが鳴った。
母の容態が変わった、今夜が山になりそうなのですぐに来てほしいと医師が告げる。
ああ、それならば病院に居れば良かった。集中治療室の面会時間を守り、短時間で帰ったものだから…。
これからすぐに駆け付けたって小一時間かかる。
すると、また病院から電話がきた。「今、どこですか?」
急いではいるが、そんなにすぐには無理だ。そう言うと看護師は「…そうですか。気を付けて来てください。」と切った。
それが母が事切れた連絡だったのだ。
実家へ寄り、父を乗せ病室に着いた時、医師が居て説明してくれた。
容態が急変してから、すぐだったそうだ。
苦しみは少なかったとも言ってくれた。

父には、もう一度見舞いに行くとだけ言って連れ出して来ていた。
「え?え?もうあかんのか?」と訊ねる父にうなづくと
「えっ!?」と驚愕に全身を震わせ、そのまま父の心臓も止まるのではないかと思った。

母の手はまだ温かかった。
これはたぶん、ベッドに電気毛布を敷いてくれていたおかげだと思う。
昨夜も今朝も母の手が冷たいのが心配だった。

「お父さんもお母さんの手を握ってあげて。」
とベッド脇の場所を譲ると、父は母の手を取り涙をこぼし、
おでこを母の額に擦りつけた。
「お前…俺より先に逝くなんて…殺生やぞ!」

その夜、母は久しぶりに自宅へ帰った。
たくさんの花でささやかな家族葬を執り行った。

母のお顔は穏やかで、元気な時の本来の母の表情になっていた。
病気による麻痺などから解放され、楽になったのだ。
母は十分に頑張った。八十六歳はほぼ女性の平均寿命、天寿を全うしたと言える。
母は病気に負けなかった。長く辛抱強く戦い、勝利した。
「良かったね。」
思わず、そう声を掛け、母の髪を撫でた。

斎場で棺が釜の中へと入れられていく時、
母がエレベーターを怖がる閉所恐怖症であることを思い出し、可哀想に思った。
もしかしたら、母はこの瞬間をイメージし怯えていたのかもしれない。
隣りに並ぶ主人に小声で話すと、
「仕方ないやん。こればっかりは階段で行ってもらうわけにはいかないんやから。」
それもそうだ。
それに、主人も閉所恐怖症だった。

お骨上げはとても辛いが、不思議と骨であってもそこに母の表情が見えた。
母は父と私、弟をまっすぐに見ていた。
施設のベッドで寝ている時と同じ首の傾け方で。

母の人生はどんなものだったろう。
私は母に何ができたろう。

良い娘ではなかった。
母もどう子どもを育てれば良いのかわからないまま、懸命にもがいていたと今ならわかる。

19歳の時、バイト料が入ったのでケーキを買って帰ると母がとても喜んでくれた。
「梅田のケーキは違うね。」なんて言っていた。
娘に思わぬプレゼントをもらう嬉しさは私も今はわかる。

八十六才になると、死んでも仕方ない年と人に言われる。
私にはあと三十年余りの時間しかない。
元気に頭も体も動く年となると、二十年か。
人生、長いようで短い。
残りの人生で何か残せるだろうか。
「良かったね。」と言われる生き方ができるだろうか。


※2020年5月の記事再掲。

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