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ひまわりの約束・牛窓編

(光太との新たな人生を歩み始めた亜希子は、60年近く暮らした東京・神田の下町を後にします。近所の人やカフェのお馴染みさんには、「夜逃げ?駆け落ち?」と思われるのも嫌だったので、隆行と離婚したこと、血のつながらない弟の光太と結婚したことを正直に話しました。そして、西日本の岡山県に移住するので店を閉めることと、長年お世話になったことへの感謝を伝えました。)

さようなら、東京

カフェ、プロメッサ・デル・ジラソーレは、惜しまれつつ、その40年の歴史の幕を下ろし、解体され、更地になった。

築後90年近く経った建物は、老朽化も激しく、リノベーションのプロフェッショナルの光太は、「東京は地震も多いしね。古い建物は危険だ。ここはもう、直すより建て替えたほうが安いぐらいだしね。母ちゃんと姉ちゃんの思い出の詰まったお店だからこそ、他の誰かにやってもらうのも気が進まない。だから、ここは新たな歴史を刻むべく、更地にしてしまおう。」と言って、さっさと解体業者を手配してしまった。

亜希子は父の代からのアンティークの食器だけは丁寧に梱包して、貸し倉庫に保管した。しかし、後の家具は解体業者に任せた。自分では、これを残しておこうとか、これはいらないという判断が難しかったからだ。

店の土地とマンションは光太が同業者の不動産会社に売って、亜希子の口座にはまとまった現金が入った。駅から近いという利点もあり、有利に売買が進んだらしい。光太は幼い頃から目端が利いたが、親友が有能な弁護士だったこともあり、他の所有物件も次から次へと高値で売っていった。好立地条件に加えて、彼が所有していた貸し店舗などは、どれもよく流行っていたので、引く手あまただった。

最後に残った光太のマンションの片付けも、「いるのはパソコンと服が少しと、車ぐらいかな」と言って、パソコンとお気に入りの服を車のトランクルームに詰めて、それでおしまいだった。テレビやオーディオ製品は不動産会社のスタッフが喜んで持って帰った。そのスタッフも光太の尽力で再就職先が決まっていた。

あとは片付け専門の業者に任せるらしい。「月末までに姉ちゃんも、持ってく服を車に積んどいてね。他のいるものは向こうで買えばいいからね。」…ここで亜希子は、また悩まなければならなかった。結局、光太の新しいワーゲンのステーションワゴンの空いたスペースに載るだけの服を選んだ。向こうは温暖なところだとは聞いていたが、それでももうすぐ冬が来るから、コートも一枚だけ最後に載せた。

「俺には姉ちゃんがいれば、それで幸せなんだ。」というのが、この頃の光太の口癖になった。ああ、もう夫婦なんだから、「姉ちゃん」はおかしい。亜希子の提案で、「あきちゃん」と呼んでもらうことにした。それでも、時々「姉ちゃん」が出てくるのは仕方がない。彼らは40年間、姉と弟だった。

牛窓へ

光太は、亜希子の離婚話が進んでいる頃に、岡山県瀬戸内市にある牛窓という海辺の街に300坪ほどの土地を購入していた。都会の土地とは比べ物にならない安い物件だった。建築士でもある光太は残務整理の合間に、自宅兼貸別荘の設計図を描いていた。それを見た亜希子は言った。

「光ちゃん、私はやっぱりカフェをしたいのよ。そこが観光地だったら、週末だけでもダメかしら?」

「俺は、姉ちゃん、いや、あきちゃんに、のんびり余生を過ごしてほしかったんだ。兄さん、いや、隆行が好き勝手してたから、あきちゃんはずっと働き詰めだったじゃないか。俺は、自分の奥さんにはあんな苦労はさせたくなかったんだ。」

「うん、ありがとう。光ちゃんの気持ちはとっても嬉しい。でも、私は働くのが嫌いじゃないの。それに、知らない土地であんまりのんびりしてたら、認知症になるかもしれない。それが一番怖いわ。」

「そうか、そういう考え方もあるか…じゃあ、俺も手伝うから、週末だけやってみることにするかな。」

と言いながら、光太はパティオのあるカフェスペースをデザインしてくれた。「自分たちはマンション暮らしでペットを飼ったことがなかったから、わんこを飼ってみよう。うん、それなら、カフェも貸別荘も犬連れOKにしたらどうかな?」と楽しそうにプランを考えていく。

亜希子は、海辺でこそ光太の才能はもっと生かされるような気がした。そして建築士の妻も悪くはないと思うようになった。光太は岡山県で設計事務所を開くべく、1級建築士の資格も取っていた。

東京・神田を引き払い、岡山・牛窓に移動した二人は、新居が完成するまで、近くのリゾートホテルのスイートルームで暮らした。亜希子が「もったいない」というと、光太は、「40年間働いた退職金がわりだと思うといいよ。しばし、優雅なマダムになっててね。」と笑って言う。13歳年下の夫に相応しいマダムってどんなんだろう、と亜希子は鏡を見ながら考え、「とりあえず、エステに行ってみようか」と思いついた。これ以上老け込むのは自分が許せなかった。そのホテルには、リラクゼーションとして、バリニーズエステがある。そこで、亜希子は穏やかな瀬戸内の海を眺めながら、長年の心と体の凝りをほぐしてもらうのだった。

「さすがに、あきちゃん綺麗になったね。それでこそ、『僕のマドンナ』だよ。」と眩しそうに自分を見つめる光太の眼差しと、60歳という自分の年齢とのギャップにどうしても戸惑う亜希子だった。彼女が70歳になった時、彼は同じことを言ってくれるだろうか?きっと、彼は同じことを言うだろう。そして、彼女は、相変わらずその言葉に戸惑うだろう。

新居の完成

光太と亜希子の新居は、翌年の春に完成した。シンメトリーな軽量鉄骨3階建ての白いレンガタイル張りの建物で、中心にエレベーターがある。1階はパティオのあるドッグカフェと駐車場、カフェ用トイレと足洗い場。(エレベーターを挟んで、カフェのある棟は彼らの住居、駐車場の側は貸別荘になる)

2階からは、左右対称にジャグジー付きのバスルーム、犬用のシャワー付きの小さなバス、ランドリールーム、人間用のトレーニングルームと犬用の室内ドッグラン(人間が走ってもOK)、人間用トイレと犬用トイレコーナー。

3階も左右対称に、海の見えるリビングルームとベッドルームが二部屋、キッチン、洗面室、トイレがある。屋上では、バーベキューやビアガーデンもできる。南海トラフ地震による津波にも備えて、外階段の途中にボートも設置している。

亜希子は東京ではマンション暮らしだったが、音楽を愛する元夫とは別室だった。光太と結婚してからも、カフェが混んだ日は一人になりたかった。そんな日は、光太は亜希子のマンションの下で名残惜しそうにさよならするのだった。休日は光太のマンションで過ごしたが、ダブルサイズのベッドとは言っても、亜希子は窮屈に感じた。

ホテルのスイートルームでは、リビングとベッドルームだけの空間で光太と半年近く一緒に過ごした。大きなベッドが二つあるのは、亜希子にとってはありがたかった。お互いにいびきもかくし、おならもする。しかし、それを笑ってやり過ごすことのできるきょうだいのような関係に、懐かしさと安堵を感じてはいた。それもそのはず、光太は10歳になるまで、亜希子のベッドで時々一緒に寝ていたのだ。

「なんだか昔に戻ったみたいね。」

「うん。姉ちゃんが嫁に行った後は、寂しくて姉ちゃんの布団を抱いて寝てたよ。まさか、本物の姉ちゃん、いや、あきちゃんをこうして抱いて寝るなんで夢にも思わなかった。」

「その頃、夢にも思われたら、気持ち悪かったわよ。」

「いや、夢にも見た。若い頃は大変だった。」

「何が大変だったの?」

「もう訊くなって。うるさいよ!」

光太は耳まで赤くなって、寝返りを打って海の方を向いていた。そんな彼を、亜希子は可愛いと思うと同時に、やはり申し訳ないと思うのだった。彼は、本当に長い間、よく自制し耐えた。男としての感情やエネルギーを、弟としての愛情に転換するのは、並大抵のことではなかっただろう。

結婚披露宴

新居の完成披露と1年近く延期していた結婚披露宴を同時にすることになった。結婚式は、親友の弁護士夫妻の立ち会いのもとに、東京のホテルで済ませていたが、何せ、二人は「人目を忍ぶ」夫婦だったので、披露宴はまだだった。

二人が滞在していたホテルのガーデンレストランを貸切にしてもらい、東京から友人を呼んで、ささやかな披露宴を催した。装花はひまわりをメインに、明るく爽やかな雰囲気を演出していた。ひまわりは全部で99本、それは「永遠の愛」を表していた(これは、亜希子から光太へのお返しのメッセージ)。料理はそこの名物のギリシャ料理が振る舞われ、海釣りの好きな光太の親友と元同僚は、目の前の海と新鮮な魚に大満足だった。弁護士の妻が早めに来て、準備と花嫁の付き添いをしてくれた。ずいぶん年下だが、よく気のつく優しい女性だった。

鏡の前で、カスタムメイドのクリーム色のシルクのドレスを着た亜希子の髪を後ろからそっと撫でつけながら、彼女は言った。

「亜希子さん、本当にお綺麗ですよ。そして、お幸せそうです。」

「淳子さん、本当にありがとう。私には母も女きょうだいもいないから、助かるわ。」

「みんな、お二人のお幸せを心から願っていました。特に主人は高校の時からずっと光太さんと親友でしょう。その頃から彼が『姉ちゃん一筋』だったのを知っていました。だから、亜希子さんが光太さんのプロポーズを受け入れられた日は、家に帰ってからもおいおい泣いていましたよ。私ももらい泣きしました。」

「そうだったの。光ちゃんはいいお友達を持って、幸せ者だわ。私にはそんな友達はいなかったの。」

「その代わりに光太さんがいらっしゃったじゃないですか。彼は何者にも勝る存在ですよ。」

そうなのだ。見知らぬ土地で、これからは光太だけが、亜希子の唯一の家族であり、親友なのだ。

夕暮れの新居のカフェスペースでビールを飲みながら、男たちは明日の釣りの話に花を咲かせていた。近所の漁師が船を出してくれることになっていた。亜希子は淳子と、これから飼う予定の犬の話をしていた。淳子と洋一の夫婦には、大学生の息子とミニチュア・シュナウザーの女の子がいる。淳子にスマホの写真を見せてもらい、たいそう気に入ったので、ミニチュア・シュナウザーが第一候補になった。人間の言葉をよく理解でき、飼い主とのコミュニケーションがとても上手な犬種らしい。ただ、長毛種なので、毎日のブラッシングと月一回のトリミングが必要だということだった。

「私の癖毛を、光ちゃんがブローして直してくれるぐらいだから、わんちゃんのブラッシングも得意じゃないかしらね。」

「へぇ、そうなんですか。羨ましいです。私なんか、産後でもそんなことはしてもらわなかったですよ。わんこのブラッシングはしてくれますけどね。あの強面が、『可愛い娘だ』とか言って、にやけちゃって。目の中にハートが見えるんですよ。わんこに嫉妬しても仕方がないんですけど。」

二人で笑い転げながら、こんな可愛い妹がいたらいいのに、と亜希子は思った。東京と岡山に離れてはいても、この夫婦とはずっと親戚のように付き合える予感がしていた。

ドッグカフェ開店

ホテル暮らしの間、亜希子は散歩がてら近所のリサーチをして回っていた。古い家並みが続く路地を目立たない服装で歩きながら、さりげなくおかみさんたちに近づいて、無農薬の野菜が近くの島から船で届くことや、旬の魚の料理の仕方などを聞いては、後でメモした。中には「あしたの昼に作るけん、食べにこられえ。」と言ってくれる親切な人もいた。手土産を持って光太とその家を訪れると、たいていこう言われた。「ぼっけえ男前(おとこめぇ)の旦那さんじゃなあ。俳優さんみてえじゃ。」亜希子はそんな岡山弁も少しずつ覚えていった。このあたりの人は、よく「〜じゃけん(〜だから)」とか「〜せられえ(〜しなさい)とかいう。「でえれえ、ぼっけえ」は「すごい」と訳せるだろう。

そして新居に移る日には、ホテルの支配人から花束と励ましの言葉をもらった。なじみになっていたスタッフからも、小さなプレゼントを手渡された。中身は写真立てで、二人の結婚披露宴のベストショットが入っていた。「おめでとうございます。うちにもわんこがいるので、ドッグカフェにも行かせていただきますね。」と何人かのスタッフが声をかけてくれた。

ホテルでは、光太は忍者のように気配を消していたが、それでも女性スタッフの関心を引いた違いない。きっと、「なんであんなに素敵な人が、年上のおばさんと結婚したんだろう?」と噂になっていたはずだ。「あんたらあ、ええ加減にせられえ。うちゃあ、光ちゃんのマドンナなんじゃけん」と岡山弁で言ってみたかったが、さすがに亜希子も客商売なので、心の中だけでつぶやいた。

ゴールデンウィークに間に合うように、亜希子と光太はメニューを考え、それに合う食器を揃え、無農薬の紅茶や有機栽培のコーヒー豆を手配した。自然が豊かな場所なので、化学調味料や保存料無添加の食材やソース、ドレッシングを使い、ランチを提供する予定だった。野菜は淡路の玉ねぎ以外は地元のものを仕入れ、パンも国産小麦を使って、フォカッチャを焼く。

おすすめ自然派メニュー

 淡路の玉ねぎのチキンカレー
 地魚のフライランチ
 王道のオムライス(無添加デミグラスソース)
 季節のパスタ
 無添加ベーコンとマッシュルームのピザ

光太のリサーチによると、車で1時間ほどの倉敷市近郊に無添加のベーコンやソーセージを作っている工場と直売所がある。また、倉敷市の美観地区のすぐ近くに無添加のデミグラスソースを作っている味工房もある。彼らのカフェのすぐ目の前の商業施設には、自然食品の店もある。牛窓には獲れたての魚と無農薬野菜、マッシュルーム農場まであるのだ。忘れてならないのは、オリーブ園の厳選されたフレッシュなオリーブ油。

「俺、ぜ〜んぶ食べたい!」と子供のように目を輝かせる光太に、「はい、はい、お手伝いしてくれたらね。」と亜希子は母親のように言う。資格好きの光太はコーヒーマイスターでもある。「本当は、シェイカーを振ってカクテルもつくりたいけどね。ここはバーじゃないから。」とちょっと残念そうな光太。実はバーカウンターは自宅の3階にある。お客さんは、今のところは亜希子のみ。時々、洋一と淳子の夫妻も加わることになるだろう。

ドッグカフェの利用規約は、犬好きの弁護士の洋一が作成してくれた。何枚かプリントして準備したが、問い合わせがあった時に役に立ちそうだ。後は、ホームページ作成を東京の不動産会社で利用していた広告会社に依頼した。光太がインスタグラムを発信すると、ホームページに繋がるようになっている。光太のインスタのフォロワーは3000人を超えている。新しくできた店舗の紹介はお手のものだ。

「そんなに繁盛しなくてもいいんだからね。俺は、不動産を売った資産を着実に増やしてるから、生活の心配はないんだ。万が一、俺が自動車事故や船の事故で死んでも、あきちゃんが受取人の保険に入ってるから、あきちゃんは一生楽に暮らしていける。」

「何を言ってんのよ。順番からいくと私のほうが先よ。私を置いて行かないでよ。」

「そうだね。40年待って、やっと姉ちゃんを手に入れたんだ。せめてあと50年は一緒にいさせてくれ。いや、できることなら永遠でもいい。」

どうやら光太は本気らしい。しかし、彼の願いをかなえるためには、亜希子は最低でも110歳まで生きなければならない。しかも99本のひまわりは、「永遠にあなただけを愛する」という約束を意味している。それは本当に「ぼっけえ」約束である。

                    (おわり)

最終編「ひまわりの約束・番外編」はこちら
https://note.com/merry_squid4268/n/n7e094142ec38

本編「ひまわりの約束(神田編)」はこちら
https://note.com/merry_squid4268/n/n2c858bd650a8?sub_rt=share_sb

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