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是ヨリ高野山女人堂江

単行本『大阪の街道を歩く』では、街道沿いに残る古い道標についても記してきましたが、そこでは書き切れなかったことを、少しずつ書いていきたいと思います。

西高野街道は大阪府堺市堺区から発し、堺市、大阪狭山市へと続き、河内長野市内で中高野街道、東高野街道と合流し、一本の高野街道となって大阪と和歌山の府県境・紀見峠を越えて高野山に向かいます。

西高野街道・高野街道の大きな魅力の一つは、江戸時代末期に建てられた、高野山までの里程を刻む道標(里程石)が、すべて現存していることです。

里程石は、現在の大阪狭山市の茱萸木(くみのき)村の住人が発起人となり、安政4(1857)年に建立。堺市堺区内から高野山まで一里ごとに立っています。順にみていきましょう。

■「是より高野山女人堂江十三里」

十三里石(堺市堺区榎元町3丁2-30)

■「是より右高野山女人堂江十二里」

十二里石(堺市中区新家町631)


■「是ヨリ高野山女人堂江十一里」

十一里石(大阪狭山市岩室2丁目225)

■「是より高野山女人堂江十里」

十里石(大阪狭山市茱萸木7丁目1450−1)

■「是より高野山女人堂江九里」

九里石(河内長野市古野町1―33)

※「九里石」は街道沿いの原位置から移されています。

■「是ヨリ高野山女人堂江八里」

八里石(河内長野市三日市町123−1)

■「高野山女人堂江七里」

七里石(河内長野市河内天見)

大阪府内の里程石は、ここまで。紀見峠を越えて和歌山県橋本市に入ってすぐに「六里石」があります。

■「高野山女人堂江六里」

六里石(和歌山県橋本市柱本)

実は、西高野街道・高野街道を歩いた当時、里程石に刻まれた文字が、単に「高野山」ではなく「高野山女人堂」なのか、深く考えませんでした。また、高野山に訪れたことは一度もありませんでした。

ことしは高野山がユネスコの世界遺産に登録されて20年。街道を歩いて人々が目指した高野山に、一度行ってみようと、ことし8月に単身、出掛けました(ただし、南海電車とケーブルで)。

一度に全部は周り切れないと思い、その日は、金剛峯寺、根本大堂、蓮華定院などを訪ね、「不動坂口女人堂」前から周遊バスに乗って帰路につきました。

不動坂口女人堂(2024年8月13日)

高野山は明治の初めまで「女人禁制」。高野山の七つの入り口には女性の信者のための籠り堂として「女人堂」が建てられました。不動坂口にだけ女人堂が残っています。

実際に高野山に出掛けて、静寂の中で女人堂を見たときに、思いました。

里程石が建てられたのは「女人禁制」が続く江戸時代末期。建立の発起人となったのは茱萸木村の2人の住人、小左衛門と五兵衛。「女人堂」と刻んだのは、街道をゆく女性たちのことも、ちゃんと考えていたのではないかと。

西高野街道・高野街道は単行本『大阪の街道を歩く』第6章・121~139ページに収録しています。

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