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念仏と無宗教

宗教

幼いころ、両親が共働きということもあり、叔母の家で過ごすことが多かった。
兄弟で近所の安養寺というお寺(1500年頃初代住職が岐阜県岐阜市下土居という地域に建てた)に散歩がてら遊びに行っていた。
目と鼻の先のお寺。
当時の住職も覚えているほどよく訪れ、お経を聴いては何を言っているのかさえ分からず。
ただただ、手を合わせて
「なむあみだぶつなむあみだぶつ」
と真似をしていた。
あとはお寺を遊び場にしていた。
生まれる前に亡くなった祖父の法事でも度々聴いたが、自分の中で何の呪文なのかわからなかった。

祖母

次に触れた機会はお葬式。
昔から可愛がってもらっていた祖母の死はとてもとても辛かった。
足を不自由にしていたため、歩くこともままならなかった祖母だが、叔母の家に行けばとにかく可愛がってくれた。
一緒に食べた黄金糖、麩菓子。
ゆうと呼んでくれる声。
祖母がまだ歩ける頃、叔母の家で歩く音。
なにもかも懐かしい。
何より祖母の体のぬくもりがとても好きだった。
次第に足が動かなくなり、下の世話が必要になった時、小学生ながらにおむつを替えた。
当たり前のように。
自分がされてきたことを返すことができた。
そんな愛おしい存在もいなくなるときが来て。
入院し、肺炎になり、亡くなった時、お経にまた触れる機会が多くなった。
お経の意味こそ分からなかったが、
お経を唱えることは少しずつ出来るようになっていた。

お経

「南無阿弥陀仏」
実家は浄土真宗本願寺派の為、こう唱えている。

南無・・・礼拝、挨拶、お辞儀の意味。これが転じて帰依するという意味に捉えられている。

阿弥陀・・・アミターバ(無量の光明)とアミターユス(無量の寿命)の無量の部分を漢字にしている。

阿弥陀仏・・・自分の名を称える者を浄土に往生させるという本願を誓って、人々が積むべき功徳を完成したうえで、自分の名前を呼ぶものを浄土に行かせるということ。

仏様に伝えるためのことばではなく、自分の為に祈る言葉。
ざっくりいうと浄土に行くために徳を積みつつ、祈り続けてくださいというものだということを住職の説法で教えられた。

祖母の死、叔母の死、いとこの死で唱えてきた言葉は

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

となり、意味を成してきたんだと理解をした。

今日は兄の13回忌。
教えを説いた住職も亡くなってしまったが、兄が亡くなった時に住職はこう説いてくれた。

生前、お寺に通う兄弟をよく覚えています。二人が懸命に唱えたこともあり、釈孝耀として立派な仏として浄土に向かった。

そうだと良いな。

それだったら救われる。

ただ、神や仏がもしいるのなら、もしいるとして。どうか死後の世界の為のものではなくて、いま生きている者を生かすことを考えてくれないかな。

この世の定めなのかもしれない。

だからといって納得ができるものではない。

僕は兄のこと以来宗教というものを信仰はしていない。

ただ、宗教によって母は救われているし、大事だと思っている。

ナムアミダブツナムアミダブツ

僕の唱え方はこうなっている。自分のためなんかには必要ないから。

母を救ったようにいま生きている人たちの救いとなるよう、宗教が善き方向性を示してくれるものになるよう、ただそれだけで良い。

宗教は素敵なことだと思う。ただ、信じるものの為に命を奪うことは違う。それはエゴだ。

無宗教が決していいとも思わない。

いまを生きてほしい。

いままわりにいるひとを大事にしてほしい。ただそれだけを唱えたい。






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