過去を大事に

小さい頃の記憶

暗い話だけど書き記す必要がある。
子供のころから両親は共働きだった。
理由は父方の祖父の借金を肩代わりしていたから。
祖父は岐阜県土岐市でも有名な地主の長男だった。
だが父が生まれた後、家督を継ぐことを拒否し父を置いて出ていった経緯がある。
そのあとから神戸で自分の事業を起こしたが失敗したと聞いた。
その借金もあり、両親はその連帯責任として借金を肩代わりしていた。
母は保険業の営業を勤め、父は青果市場やトラック運転手として深夜頃にしか帰ってこない生活をしていた。
祖父は中学の頃にコチラに戻り、1年も経たないうちに脳卒中で倒れてしまった。
働き始め、借金を共に返すと誓った祖父の決意は病気という結末で頓挫した。
残る借金と祖父の命と。
それでも恨めなかった僕は、祖父の命を守ってほしいと選択したが、両親は家庭の為に血縁関係を切った。
祖父は意識のない中破産宣告をしたこととされ、堀家の血縁からも離れ、僕が祖父を亡くなったのを聞いたのは高校生になってからだった。

とても非情な決断だった。
当時の自分には両親の判断が許せなかった。
生まれる前に祖父は亡くなり、祖母が亡くなったのが小学校5年生だったから、父方の祖母は会ったことのない人だったので(祖父が離婚をして父だけを連れていた)唯一の祖父に対しての仕打ちはひどすぎると、ただただ泣いて両親に懇願した。

祖父との思い出は断片的だがある。
生まれてからずっと会っていなかったが、ある時神戸に呼ばれた。
小学校1年生ぐらいだったと思う。
当時祖父が住んでいた家に通され、砂糖入りの卵焼きを初めて口にした。
そのあと花火を見て、神戸の街を一緒に歩いたのを覚えている。
祖父の左手は中指がなかった。
ごつごつした大きな手。
頭を撫でられるものの、なぜ指がないのかすごく気になっていた。
建築士の資格を持ち、大工仕事が得意だったことを覚えている。
後の話で大工仕事中に指を切断したと聞いた。
次にあった時は中学で、背も縮んでおじいさんという言葉が似あう姿になっていた。
建築の仕事にはつけなかったので、自動車整備工場に勤めた。
なにかあればお小遣いをくれ、雨の日には車で送ってくれた。

一緒に暮らした半年の記憶。

それが祖父との全てであり、唯一の記憶。

そして縁を切った。

僕や兄が泣いた以上に、父がリビングで一人泣いている姿を見た。

家族を守るための決断。
それでも祖父は父親だという葛藤。

今思えば、僕が両親を責めたことを後悔している。
僕が非情だと思うことは百も承知だからだ。

このことで痛感したことがある。

情だけでは何も解決できないこと。
守るために必要なことを。

未だに思い出す。
いくら短い期間で
いくら家族が苦労をしてきたとしても
たとえ血縁関係を切ったとしても
おじいちゃんのおかげで今自分がいることを感謝している。
今ここにいるおかげで、様々な人と出会い、妻と出会い、生かされているから。

命日は分からない。
だけどもいたことをここに記さなければそう思った。
自分にもいつか子供が出来たら、曾祖父の話がでるかもしれない。
その時に笑顔で話せるように。
僕のおじいちゃんはすごく優しい人だったというために、両親や自分たちが健やかな日々を過ごしたいと思っている。










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フローリスト堀祐次郎
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