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ミネコ1934 第二章 

 第二章 椰子の実

 少女からオンナになる日、その日は突然やってきた。
 中学三年の夏休みが終わり、新学期が始まると、ひとりの男性教員が転勤してきた。
 前職が船乗りだったその男性教員は、外国船に乗り組んで世界の港を巡ったという。英語もネイティブに近いほど堪能だった。日に焼けた彫の深い顔。筋肉質の身体つき。海の男に特有のギラギラした眼つき。近づきがたいワイルドな雰囲気を身にまとっていた。
「ジョン万次郎みたいなヒトだなぁ」
 ミネコは好奇心に胸を躍らせた。
 そうだ、この先生にホンモノの英語を教えてもらおう。
 世界のどこかに、きっとあの夢のようだった満州国のような場所があるかもしれない。母と行った美味しいレストラン。見晴らしのいい遊園地のメリーゴーランド。どこまでも続く大地に沈んでいく真っ赤な夕陽。
 その場所を捜し当てるためには、やっぱり英語だ。
 少し勇気を出して、ミネコは先生にお願いしてみた。
「わたし、英語が話せるようになりたい」
放課後、教室に残って個人レッスンのようなかっこうで、英語を教えてもらうようになった。
 時折り雑談の中で聞かせてもらう海外のエピソードは、ますますミネコの想像力を掻き立てる。そして英語の力もメキメキとついていった。
 ほんの三ヵ月足らずの間に、ミネコの英語はネイティブに近いまでに上達した。
 県の英語の弁論大会に出場して、みごとに優勝した。文字どおり全校生徒のあこがれの的になった。
 あの頃が、わたしの人生の絶頂期だったのかもしれないな。後にミネコはそう述懐している。

 冬休みに入って、学校での個人レッスンもできなくなった。春が来れば、高校への進学でみんなそれぞれの旅立ちがやってくる。卒業すれば、わたしの人生を輝かせてくれた先生ともお別れだなぁ。
 年の瀬が迫って木枯らしが吹くなかで、ミネコは淋しさを噛みしめるのだった。
 彼への感謝の気持ちと、刻々と近づいてくる別れの切なさを、ミネコは英文の手紙に書いた。そう、それは初めて書いたラヴレターだったかもしれない。
 人生のテーマ曲『椰子の実』のメロディが木枯らしの音にかき消されそうなりながら、頭をよぎった。わたしの椰子の実、わたしのジョン万次郎。
 しばらくして、教師から短い英文の返事がきた。冬休みに特別に課外授業を行う。場所は丘の上にある小屋で。次の日曜日、午後二時から。
 なんという幸せ。
そうだ。もっともっと勉強して、英語をいかせるようになって、みんなに恩返しをしなくちゃ。
心を弾ませて、ミネコは小屋に向かった。
小屋の戸を開けると、教師は火鉢にあたりながら、酒を飲んでいた。
先生、きょうも授業、よろしくお願いします。ていねいに頭を下げると、ミネコは土間に上がって、冷たい手を火鉢で温めようとした。その瞬間、教師はミネコの手を両手で握りしめ、悲しそうに言った。
「こうして逢うのは、これが最初で最後だ。キミは、僕から旅立って行かなければならない。お別れだ」
 ミネコの瞳から大粒の涙がながれて、思わず呟いていた。
 I LOVE YOU
 あこがれと共感と、そして初めて愛した人との別れ。ミネコは涙が止まらなくなった。
 小柄なミネコだったが、肉体はもう十分に成熟していた。
 泣きじゃくるミネコの豊かな胸は、海の波間のように揺れる。その深い谷間に、男は思わず顔をうずめた。
 ふたりの身体は、海に放り出された小舟のように浮沈を繰り返す。興奮と不安……。
 あこがれは、次第に恐怖へと変わっていった。殺気立つ男に組み敷かれたまま、やがてミネコは抵抗をあきらめた。
 愛とか恋とか、そんな儚い想いはガラス細工のように砕け散った。秘所から滴る鮮血をぼんやりと感じながら、男の汗の臭いへの嫌悪感だけが残った。
 この事件以来、キラキラしたミネコの瞳は光を失って、紙のようになってしまった。

 年が明けると、教師は妻子をつれて逃げるように村を出て行った。
 中学卒業までの二ヶ月あまり、ミネコは地獄のような毎日を過ごした。
 狭い村のことである。噂はすぐに広まった。ひそひそと後ろ指をさされ、ミネコは心のバランスを崩していった。
 そんなある日のこと。弟と妹をつれて公園に向かっていた。
まともに人の顔が見られず、伏し目がちに歩いていて気付いたら、二人がついてこない。来た道を引き返してみると、駄菓子屋の前でじっと飴玉の入った瓶を覗き込んでいる。
「いまのわたしには、弟たちに飴玉ひとつ買ってあげることもできない」
 情けなさに悄然とする思いだった。
 ふと顔を上げると、駄菓子屋の主人が、まるで汚らわしいものを見るような眼つきで、こちらを睨んでいた。
 その日の夜は、悔しさと情けなさでなかなか寝つけなかった。
 明け方、ミネコはある計画を思いつく。
数日後。ミネコは物陰に身を寄せて、駄菓子屋の主人が店を離れる瞬間を、辛抱強く待っていた。
その時がきた。
店主が店を留守にしたほんの数分。ミネコは飴玉の瓶を抱きかかえると、無我夢中で走った。
こんなに速く走れるなんて。風を切って走る。走る。心臓が高鳴る。
わたしは、いま、生きているんだ。
なりふり構わず森に駆け入ると、獣道の脇に素手で穴を掘った。すっぽりと瓶を埋め、枯葉でカモフラージュした。
またひとつ、秘密を抱えた。翌日からミネコは人目につかないように森に入っては、瓶から飴玉を二つずつ取り出して、弟と妹に持ち帰った。
「お姉ちゃんは魔法使いみたいだなぁ」
 屈託のない笑顔を見せながら、飴玉を口に入れる弟と妹。
 その笑顔を見て、ミネコは自分に言いきかせるのだった。
「そう。わたしはまだ、だいじょうぶ」

        画 キヨコ

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