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ミネコ1934 第三章
第三章 ヤクザとの邂逅
昭和二十五年、春。
ミネコは住み慣れた九州の街を離れ、汽車に乗って岩国へと向かっていた。
その前年の春にミネコは中学を卒業し、看護婦になる夢を抱いて、家から少し離れた街にある看護学校に入学していた。
いまでは男女の別なく「看護師」と称されるが、当時の「看護婦」は、若い女性にとってあこがれの職業であった。
初めての寮生活は、それなりに充実したものだった。
大学病院に付属する看護学校の図書館は、ワンダーランドのようで、消灯時間のギリギリまで読書に耽ることができた。
週末は自由行動が許されていたので、日曜日には近くの教会の礼拝に行き、礼拝の後はアメリカ人の牧師と英語で話しながらお茶をする。おかげでミネコの英会話にはますます磨きがかかった。
その後の思いもよらない出逢いの連鎖によって、看護婦になる夢をあきらめざるを得なくなった経緯については、追い追い語ることのしよう。
ともあれ、街を飛び出して岩国に行こうと決めたのは、牧師が信徒のアメリカ人から聞きつけたある情報に賭けてみようという気になったためである。
岩国の米軍基地で秘書の仕事があり、近々その面接試験が行われる――。
汽車の窓を流れていく風景をぼんやりと眺めながら、ミネコは一年足らずで終わってしまった看護学校での忘れがたい日々を想い起こしていた。
朝、寮のベッドで目覚めると、外でカラスの鳴き声が喧しい。
今日はお彼岸だから、亡くなった人たちが帰ってきて、この世で言い残したことを伝えようとしているのかしら。
頬にあたる風は桜の開花を邪魔するように冷たく、空は花曇りでどんよりしている。それでもミネコの心は、新しい世界に踏み出す興奮で満たされていた。
寄宿舎は、文字どおり桜の園だった。
広大な敷地を取り囲むように、咲き始めた桜の樹が立ち並ぶ。真っ白な看護服に身を包む女学生たちの笑い声は、鳥の囀りのように清々しい。そしてサクラ色に染まる彼女たちの頬、頬、頬。
ふとミネコは、グリム童話の『狼と七匹の子山羊』を思い浮かべる。全身を白く塗ってヤギになりすますオオカミ。あら、やだ。
へんな妄想を振り払って、新しい生活で青春を謳歌しようと切り替える。
研修での実習が始まった。
もともと手先が器用なミネコは、点滴の針を刺すのがとても上手で、細い血管の患者でも難なくこなすことができた。
ある日、病院に子宮がんの患者が入院してきた。すでに末期の状態で、手術は不能。
戦後間もない当時の抗がん治療は、ラジウムの原石を患部に置いて様子を見るという、きわめて原始的なものだった。
暫く小康状態がつづいた患者だったが、間もなく急変し、子宮からの出血が見られるようになった。白いシーツがみるみる真っ赤に染まっていく。顔色も蒼白になり、意識が低下していった。
ミネコは必死にガーゼで血を拭っているうちに、処女喪失の体験が蘇った。
「あの時と同じ血の色……」
気を失いかけて、処置室に運ばれた。
ミネコは、思った。
あの日、赤い血が流れ、自分の中の何かが死んだ。死という感覚はこんな感じなのか。
朦朧としながらも意識を取り戻したミネコが患者の病室に戻ろうとして、廊下を歩いていると、病室から、
「お母さん、お母さん」
と、幼い子どもたちの泣き叫ぶ声が聞こえてきた。
立ち竦んだまま、ミネコはじっと悲しさをこらえた。
ミネコにとって人が避けられない「死」を目の当たりにするのは、もちろんこれが初めてではない。
満州から引き揚げてきた時の貨物船。ひしめき合う船の中で、食糧も乏しく、引き揚げ者の多くが病気に倒れ、餓死者が続出した。
船員の中には親切な者もいて、子どもは国の宝だからと、お釜の底にこびり付いたおこげをミネコたちに分けてくれた。それをおじやにして、家族で食べて飢えを凌いだ。
朝がくると、静かになった船室に船員たちがやってきて、遺体を運んでいく。
遺体は淡々と海に投げ込まれ、荼毘に付されるのだった。
人は生きるために食べ、そして病んで、死んでいく。
病室から聞こえる子どもたちの泣き声を聞きながら、ミネコは、神さまや仏さまの存在を強く信じたい、そう思った。
いや、信じるだけでは足りない。
人間にとって、神さまや仏さまは存在しなければならない。そのように強く願うのであった。
看護学校での生活にも少し慣れた、ある初夏の日のことである。
ミネコは研修で、入院中の地元ヤクザの親分の点滴を任された。手際の良さに加えて、利発で笑顔の可愛いミネコは、大いに気に入られてしまう。挙句、
「息子の英語の家庭教師をやってくれ」
と、頼み込まれた。
正直なところ、お財布が助かるし、内緒のアルバイトならだいじょうぶかな。軽い気持ちで引き受けることにした。
暑かった夏が終わり、秋が深まる頃に親分が退院した。ミネコは早速、学校に週末の外出届けを出して、夕陽の傾く時刻に、組長の屋敷へと向かった。
大きな門の扉が開くと、広い庭に続くアプローチに、ずらりと組員らが整列してミネコを出迎えた。
赤々と灯る提灯の縦列に、ミネコは一瞬、気後れする。
座敷に案内され、履物を脱いで上がった。つい先日まで、病室では点滴を怖がって、痛いの死ぬのと大騒ぎしていた男が、別人のように上座でふんぞり返っている。
すでに酒を飲んで、赤ら顔。上機嫌だ。
となりには、青白く無表情な青年が座っている。顔にまだあどけなさが残る。
「赤鬼と青鬼みたいだな」
この非現実的な光景が絵本のように感じられて、ミネコは少し愉快になった。
青年はミネコに目を止めると、恥ずかしそうに会釈した。
一方、親分は着流しの上半身をはだけると、背中の倶梨伽羅紋々をミネコに見せつけ、満面の笑みで盃を差し出してきた。
「将来の嫁と兄妹の盃だ」
そう言って酒を注いだ。
みごとな登り龍の刺青はさすがの迫力だったが、心の中では、
「家庭教師を頼まれただけなのにな……」
戸惑いながら、生まれて初めての「お酒」というものを口に流し込んだ。
美味しいとか不味いとか、そういう感覚はない。ただただ不思議な飲み物。
秋の夕陽は釣瓶落としで、あっという間に夜の帳が下りた。
宴の広間では、組員たちにも酒が回り、次第にボルテージが上がっていく。命のやりとりと背中合わせに生きる者たちが、狂乱の刹那へとのめり込んでいる。
ふと目を上げると、親分の息子は相変わらず醒めた目で宴席を眺めていた。この青年もいつの日か、代紋の跡を継いで生きていくのだろうか。
そしてこの私は、いったい何処まで流されながら生きる運命なのだろうか。
そんな感慨が頭をよぎる。
いやいや今日は、面倒なことは考えないでおこう。ミネコは目の前の見たこともないご馳走に身をまかせようと、心を決めるのだった。
そんなことがあってから、ミネコの週末は忙しくなった。
土曜日にヤクザの息子に英語を教え、そのまま屋敷に泊めてもらい、日曜日は教会の礼拝に出て、牧師との情報交換にいそしむ。
年も押し迫ったある晩。いつものように勉強を終えて夕食をいただいて、用意してくれている和室に入ると、布団が二つ並べて敷いてあった。
暫くすると、息子が静かに襖を開けて入ってきた。黙ったまま片方の布団に滑り込むと目を閉じている。
彼の純情はミネコも感じていたので、そのまま隣りの布団に入った。
青年は二つか三つ年上だったが、ミネコは姉のような気持ちで彼の手をそっと握って、眠りに就くことにした。
広間から聞こえてくるさんざめきが、子守唄のようだ。ふかふかの羽根布団に不思議な安堵を感じながら、うとうとする。
いつか、この青年を愛する日が来るのだろうか……。
夢見心地の妄想は、いきなり破られた。隣りの部屋で様子を窺っていた親分が、ドスを片手にずかずかと入ってきた。
「お前は、いい歳をして、なんてざまだ」
そう言いながらドスを畳に突き刺すと、おもむろに褌を解きながら、ミネコに覆いかぶさった。
「よく見ておけ。オンナはこうやって自分のものにするんだ」
慣れた手つきでミネコの裾を押し広げ、下着を剥ぎ取ると、腰を突き上げるようにして中に入っていく。
激しい衝撃は、やがて興奮となり、ミネコは背中の登り龍に爪を立てた。
「いまわたしは、人間じゃないものと関係をもっているみたい」
身体の熱とは別の、もうひとりのミネコの心の中は冷静だった。
すぐ隣りでは、ショックのあまり顔を蒼白にした青年が号泣している。
繊細な青年の心は砕かれた。
「やめろ! やめるんだ!」
青年は畳のドスを抜き取ると、父親の顔に突きつけた。
「ミネコから離れろ! 離れなかったら、刺す!」
と、叫んだ。
一瞬ひるんでミネコから離れた父親を突き飛ばすと、青年はミネコに跨り、泣きながら中に入っていった。
ポタリポタリと、涙がはだけたミネコの胸を濡らす。うらはらに、ミネコの心は砂漠のように乾いていく。
男たちがミネコを支配しようとすればするほど、ミネコは男たちを支配する。
十六歳になったばかりのミネコの安住の地は、此処ではなかった。
「二度と此処には足を踏み入れない」
力尽きた赤鬼と青鬼の背中を見つめながら、ミネコは強く心に決めたのだった。
あの日から二ヶ月が過ぎた三月の終わり。ミネコは、岩国の米軍基地での秘書の試験を受けるため、汽車に乗っていた。
英語ができてタイプライターが打てれば、秘書として採用される可能性が高い。アメリカ人牧師の紹介状ももらった。
ヤクザの屋敷での一件以来、ミネコは看護学校を退学し、博多の飲食街に逃げ込んだ。住み込みで夜の仕事をしながら、昼はタイプライターの専門学校に通った。
ぜったいに落ちるわけにいかない。
紙にタイプのアルファベットを書き込み、早く打てるよう一日に何時間も練習した。
当時、希少価値の高い技術である。
過去の忌まわしい出来事を忘れよう。一心不乱でタイプの練習に打ち込んだ。
岩国での新しい人生を踏み出すためには、どうしても資金が要る。ミネコは命がけの勝負に出ることを決意する。
連絡を絶っていたヤクザの息子に、手紙を書いた。
《あれから、心の傷を癒すため学校を辞め、博多に出て働いていること。そのお店に借りがあり、返さないと此処を出られないこと。そして、もしもまだ少しでも私への思いがあるなら、三十万円ほど用立ててもらえないだろうか。このことは、親分にも他の誰にも口外しないでほしい。云々》
暫くして、約束の日の夕刻。二人は博多の喫茶店で落ち合うことができた。
久しぶりに顔を合わせた青年に、ミネコは優しく微笑んで、
「元気?」
と、声をかけた。
「うん。ミネコは?」
愛し気に笑顔を返すと、青年はひと息にコップの水を飲み干す。
「わたしは、何とか」
青年は、テーブルの上に封筒を差し出して呟くように言う。
「これで足りるかな」
「大丈夫だと思う。やっぱり未成年の娘が社会に出てひとりで暮らすのは、たいへんだなぁって、つくづく分かったわ。お店にお金を返して自由になったら、お屋敷に戻るから。親分にも謝るから。わたしたち、やり直しましょうね」
ミネコのその言葉に、青年は晴れ晴れとした表情で、
「家に戻って、オヤジにミネコに会えたことを伝えるよ。組のみんなも寂しがっていたんだ。喜ぶだろうな」
そう言うと、軽い足取りで屋敷のある街へと戻って行った。
ミネコは、生まれて初めて人を裏切った。はやる気持ちを抑えて、封筒をカバンにしまうと、その足で映画館に向かった。
最終回の放映が終わり、映画館の照明が消えても、ミネコは座席の下に身を潜め、息をころして夜明けを待った。
あらかじめ調べておいた汽車の始発時間が迫ると、一目散に博多駅まで駆け抜けた。
ミネコが人生を賭けた瞬間。岩国へ向かう登りの汽車に飛び乗ったのだった。