沖田総司にさよなら
一説に、沖田総司は27歳で病死したのだという。諸説あるらしいが、学生の頃に読んだ書籍にはそう記述してあったのを覚えている。まだ中学生の頃だったであろうか。その当時の私から見ても、27歳で亡くなったというのはあまりに短命に感じられた。志半ばで、しかも戦場でなく病床で亡くなった沖田総司。どんなに無念であっただろうと、その胸中を想像すると心が張り裂けそうだ。私の中の沖田総司はきれいなまま死んでしまった。まるで椿の花がぽとりと地に落ちるように潔く、呆気ないその姿に心惹かれ、まだ純粋だった私はあろうことか、「私も沖田総司と同じ27歳で死のう」などと馬鹿なことを本気で考えていた。歳を取る毎に、私の中の沖田総司没カウンターの「死ぬまでの年数」が減っていく。いつか忘れてしまうかもしれないと思っていたそのカウンターの存在は、何故か誕生日がくる度に呪いのように思い出され、私を急かすのだった。
ある時は「27歳になる前に死ぬかもしれない、いや死んでしまいたい」と悩み、ある時は「27歳で死ぬのは勿体無いなあ」と悩み、どちらにしろやはり「27歳」という年齢が私にとってのネックになっていた。それでも、誰かといても一人でいても等しく心は孤独だった私は、27歳で死んでも誰も悲しむことはないし、迷惑を掛けるわけでもないし、死ぬときくらいは自分で決めてもいいではないかと強がっていた。志半ばで亡くなった沖田総司のことを思えば、まだ続く可能性の大きい命を自分の身勝手で捨てるような真似をする方が冒涜だという考えに至りそうなものだが、私は憧れる沖田総司のように生き、死にたかったし、自分の命はただそれだけのものだった。
約束の27歳。
私は「いつ死ぬのだろうか」と考えていた。「いつ死のうか」、でないところが小狡いと思う。結婚をして、大事にしてくれる人が出来て、もういつ死んでも悔いはないと思っていた。そんな折に、妊娠が発覚した。しかも2つの命だ。私には、道連れにしてしまう人質が出来てしまった。妊娠中、一度のみならず「もう死んでもいいかな、楽になってもいいかな」と諦めそうになったことがある。そんな弱った気持ちを立ち直らせてくれたのは、腹の中の人質たちだった。人質の存在は偉大だった。1人きりだった私の身体が3人になってから、私の心配は人質へ向けれてばかりいた。そして、あっという間に腹の中の人質たちは、人の形となって私の傍へやってきた。
強い生命力で「生きたい」と泣く姿に、私は圧倒された。子どもたちの世話に追われ過ぎていく毎日。沖田総司没カウンターの存在をすっかり忘れる程育児に没頭している内に、私の27歳は終わっていた。
勝手にその生き様に憧れて、勝手に作った自分が死ぬまでのカウンター。軽々しく扱っていた自分自身の命。それが、今では何より大切なものになってしまっている。子どもを産んでからというもの、自分の身体の健康に一番気を使っている。私が倒れたら子どもたちを育てられないから。長生きしたい、というのが一つの願望になっている。夫と子どもたちと長く一緒にいたいから。
私は沖田総司を裏切って、家族と生きる道を選んでしまった。
自分の為だけの人生を歩む筈だった命。27歳で止める筈だった命。今では家族と共に生きる為の命へとすり替わり、沖田総司の生きられなかった28歳を生きている。時に自己中心的だと称される私が、家族のことを第一に考え、育児に家事にと精力を注いでいる。
ずっと蔑ろにしていた自分自身を大切に思えるようになって初めて、私は自分が少しだけ大人になったような気がした。
そして、27歳まで生かしてくれた沖田総司にありがとうを言いたい。ふと死にたくなったとき、「でも私は27歳まで生きてから死ななきゃ」と思わせてくれた沖田総司。私は試練の27歳を生き抜いたから、これからはあなたの生きられなかった分まで精一杯生きて、死に花を咲かせようと思います。
これからは家族と共に、無限の人生を歩いていく。