散文1 感情コントロールの話とか

 丁寧な生活を送ろうとして失敗することが多々ある。おいしそうな料理はできないし、ゴミは溜まるし、本は積むし、朝起きれないし。「こうありたい」という理想の自分が数十歩も前にいて、分かってはいるけれどもこちら側としては「ちょっと待ってくれやせんかね!」と息せき切らしている。だからと言って特に自分で自分自身を責めるなんてことはなく、理想の自分と私は完全に分離しているから「だから無理って言いましたやん」と、地べたに座り込む。自分のことは自分が一番理解しているものだ。唯一の理解者といっても良い。完璧主義で理想が高く、常に背伸びをした「理想」のコイツもそこらへんは諒解している。
 自分の中にもうひとり、別に誰かが存在する感覚。私だけじゃなく、多くの人が心に何かを飼っているはずだ。自分を肯定する何か、否定する何か、鼓舞する何か、観察する何か。何も特別なものじゃない。私にとっての何かは理想論を述べるばかりのヤツだけど。理想や指針は自分の個性をブラさないために重要なものになる。時にはそれが苦しくなることもある。
 複数ある私の欠点のうち、本当に許してはならないものは「極度のめんどくさがり」であることと、そのくせに決めた物事に対する「異常なまでの瞬発性」だと思っている。欠点が薬になる場合もある。めんどうだから効率の良い方法を探すし、後先決めずに突っ走るからスケジュールで痛い目を見る。SNSで見た素朴な暮らしに一目ぼれして瞬時に環境を整えたと思えば、めんどくさがりが発動して皿洗いから手を抜き始める。二週間ほどダラダラ過ごしたあとに「これではいけない!」とまた瞬発的に大掃除をして、と、同じことを繰り返す。しかし最近このめんどうになる時は往々にして体調が悪いときだということに気がついた。体調が悪いからメンタルも不調になる。私に必要なものは慰めてくれる誰かでも、抱きしめて聞こえる心音でもなく、暖かい部屋とおいしいご飯と充分な睡眠なのだ。人間の悩みは対人関係が9割だと聞いたことがあるけれど、実際は自分の不調を他人に責任転嫁しているだけなんだろうと思う。真偽は定かじゃないけれど、私はそう思うのだ。それでも恋しくなるときはある。そういう時は諦めて本を読むと良い。17世紀のスペインの哲学者・バルタザールが「知識は全てを可能にする。知識がなければ、この世は闇だ」と述べたようだが(『賢人の知恵シリーズより』)、この知識の中には言葉や単語そのものも含まれていると思う。言葉をいうのは簡単で安易に使えて便利だけど厄介なものだ。ひとつ間違えれば意図せぬ誤解を招くことがある。それは自分自身に対しても起こりうる。処理できない感情に正しい言葉を当て嵌めることが感情をコントロールする、ということなんじゃないか。寂しいんじゃなくて寒いだけとか、苛々するんじゃなくて体調が悪いだけとか。愛している、と思うけれど、それは友愛なのか、恋愛なのか、敬愛なのか、偏愛なのか。単なる執着ではないのか。
 感情には置かれている環境が影響する。メンタルが不調の時はたいてい部屋が散らかっているので、まずは部屋の掃除からする、というのがここ最近で得た私なりの対処法だ。それでもダメな時は散文の時間だ。文字に書き起こしてみると少しはマシになってくる。ちなみに黒歴史を掘り返したときのメンタルに効くものは今のところ存在しない。死にたさにただ耐えるしかない。
 ときに「愛する」という言葉は動詞のように聞こえるけれど、具体的な行動が何一つ浮かばないところがこの言葉の厄介さと面白さだと思う。何が愛することになるのか。共に在る時間か、会話をすることか、肩を抱くことか、慰めることか、物を与えることか。安直で感動的なこの「愛する」という言葉に依存して、私たちは多くの言葉や行動を曖昧なままにしているのかもしれない。

2024.02.09 午前零時 
 散文は気が向いたら書くものです。

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