幼少期

初めて自分が自分であると認識したのは、多分川崎病で入院した時だと思う。
詳しい経緯は知らないけれど、川崎病の所見に当てはまる事が多く、疑いだったが念の為に入院という措置を取られた。
初めて母と離れて生活をする事になった。
入院前までは母の事を「ママ」と呼んでいたらしい私が周りの看護師さんが「お母さん」と呼ぶので「お母さん」と呼ぶようになった。

県立病院の小児科のベッドで自分が立っても乗り越えられない柵の中から見た光景は、点滴をつけながら歩くお兄さんやお姉さん、肩を外して歩いていたお兄さんだった。
寂しかった。ただただ何故自分がこんな所に閉じ込められているのかわからなかった。
母や祖父母がお見舞いに来てくれたけれど、あっという間に帰ってしまう。置いて行かれて悲しかった。

夜も寂しくて泣いた。泣いて泣いて泣き疲れて眠る生活だった。
お見舞いに家族がおもちゃを買ってきてくれたけれど、おもちゃなんていらなくて、ただただ帰りたかった。お母さんと一緒に寝たかった。

私の寂しがり屋は小さい頃から今でも変わらない。幼い頃はずっと指をしゃぶっていた。
幼稚園に入っても、小学校の高学年まで指しゃぶりの癖は抜けなかった。
幼稚園で、男の子達が教室で追いかけっこをしているのを見ながら「お母さんは今何をしているのかな。」と空想して寂しくなり泣いてしまう子だった。

母のことは大好きだったけれど父のことは大嫌いだった。恥ずかしかった。怖かった。
だから幼稚園の父兄参観の時、父に「来ないで」と言いたくても言えず、母に「お父さんに来て欲しくない」と訴えたけれど結局父は父兄参観に来て、それがショックで号泣した。
ろくに家に帰ってこず、帰ってきたと思うとお酒臭くてすぐ怒る父が怖くて恥ずかしくて嫌いだった。

我が家は父方の祖父母と同居だった。
父方の祖父母は(父を含め)すぐに人に責任を擦り付ける人達だった。
だから私が川崎病になった時も誰のせいで私が病気になった等と言い合っていた。最終的にはいつも母のせいという事で帰着していた。

幼稚園の運動会で足が遅いのも、私が太っているのも、全てが母のせいになった。
なので私は、母が父や祖父母に怒られないよう、お利口さんでいなければならないと思うようになっていた。
母が誰かに怒られるのを見ているのが辛かったから。

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