編集ライター修業時代の話
新卒で勤めた会社で、物を書くことと、クリエイターとして物を生み出すことの根本をたたき込まれた。男女差別が露骨だったが、上司が一からライティングを教えてくれたので「転職できるスキルを身につけるまで」と5年半我慢して辞めた。
編集ライターの仕事が楽しくなっていたわたしは、次の仕事も同業種を探した。採用してくれたのはメーカーの企画室。ここでは、社内報や広報誌にくわえ、数ある自社の広告宣伝物を作っていた。
計4人の「編集ライターチーム」に配属されたわたしは、年も経験も一番下。前職で身につけたライティングスキルを発揮しようとしたが、まったく刃が立たず、原稿には容赦なく赤が入った。
それでも、先輩2人と直属の上司はいつでも教えてくれて、相談にも乗ってくれた。激しい叱責や罵倒はなく、優しく頼りがいのある人たちだった。
仕事は波のように押し寄せてきた。原稿になかなかOKが出ず、終電帰りの翌朝8:00から会議ということも珍しくなかった。それでも、人間関係のストレスがなかったので、なんとか乗り切れた。
日々OASYSで原稿を書いては「FAX入稿」した時代である。社外スタッフのデザイナーが倒れれば「レイアウト用紙」に割り付けもした。「一眼レフ」を与えられ、取材に行って撮影をした。現像した写真の「ポジ」は、「ライティングボックス」とレンズを使って細部まで見て、使用する1枚を決めた。どれも、DTP時代には姿を消してしまった、平成ひとけた時代までの遺物だ。
デザイナーから出てきた3つの案のどれにするか投票したり、垂れ幕の広告コピーを考えたりと、本や広告をつくるためのことはひととおり経験した。
印刷所で出張校正というのも毎月あった。待ち時間等に、印刷会社の担当者からもいろいろなことを教えてもらえた。いまの校正・校閲者としての基礎スキルも、この経験がなければ穴ばかりだったと思う。
会社の費用でコピーライター講座、プランナー講座、カラーコーディネータ講座に通わせてもらえたので、唯一の休みである日曜日に課題に取り組んだ。
忙しい日々ではあったが、はちゃめちゃに忙しい会社というのは、その合間を縫って、はちゃめちゃに遊ぶ。酒の飲み方や料理の食べ方もすさまじかった。お花見でどんちゃん騒ぎをしては飲んだり食べたり。その量も半端ない。東京ドームに野球の応援に行って騒いだりということもあった。
講座にも通わせてもらい、編集ライターとして育ててもらった。だが、あまりにも忙しく、睡眠時間もなかった。10年、20年、30年後の自分の姿と立ち位置を想像できなかった。ロールモデルもいなかった。
辞めることにはなったが、いまわたしが校閲者として生計を立てているのは、ここで本づくりと印刷の基本を覚えたことが土台になっている。
あのときわたしを支えてくれたうちのひとりとは、Facebookでつながることができた。時々顔写真を上げてくれるので「無事」も確認できる。ほかの人は、いま何をしているのだろう……。いまの自分がちゃんとやっていることを報告し、お礼を言いたい。