放送大学「より良い思考の技法――クリティカル・シンキングへの招待』」受講ノート~第6回
誤った論法を知る
今回は論理学寄り、「誤謬」の話である。
まず「誤謬」を定義すると、「論理学的な意味で推論の筋道が妥当でない」ものだという。
演繹推論を扱う論理学においては、妥当でない演繹の形式という意味での誤謬が分類整理されている。それを次に挙げる。
いわゆる、「PならばQである」の前提のもとに、「Pである、ゆえにQである」の「前件肯定(モードゥス・ポネンス)」は正だが、「Pでない、ゆえにQでない」の前件否定は誤である。
同じ前提で、「Qである、ゆえにPである」の「後件肯定」は誤だが、「Qでない、ゆえにPでない」の「後件否定(モードゥス・トレンス)」は正である、と。
これだけ聞くと難しそうだが、「気象警報が発令されたら、休校になる」という例ならどうだろう。これ自体は前件肯定であるから正である。
推論1(後件肯定:誤)
前提1(Pならば) 気象警報が発令されたら
前提2(Qである) 休校である
結論(ゆえにPである)休校である。したがって気象警報が発令されている。
※気象警報が発令しなくても休校になることはあるので、これは感覚としてもわかる。
推論2(前件否定:誤)
前提1(Pならば) 気象警報が発令されたら
前提2(Qである) 休校である
結論(ゆえにPである)気象警報が発令されていない。したがって休校ではない。
※後件肯定と同じく、気象警報が発令しなくても休校になることはあるので、感覚としてもわかる。
大学時代、一般教養で論理学をとったときにはこのへんでつまづいてしまったのだが、いまは表や図を描きながらゆっくり考えればわかる。
筋道がずれているのでは?
推論というのは「根拠(証拠)から結論が導かれるプロセス」である。この道筋をずらす様々な論法が存在する。「論点の無視、論駁の無視、すり替えの誤謬」というのがそうした代表例。実は、論点のすり替えは日常生活でも多々発生している。
例)あの人は根っからの悪人だ。その人が政策Aを支持しているのだから、政策Aは間違いだ。
これは「対人論法(アド・ホミネム)・人身攻撃」といって、論理や根拠ではなくその人の特性を対象としたものだ。この論法が誤であることは、わたしたちはすぐわかる。だがが、ふだんの会話などで出てくると「そうだよね」などと相槌を打ってしまいがちである。こういうところが「論理的に考えていない」ということになる。
逆のパターンもある。「専門家」と称する人がテレビで何かを言うとそれを信じてしまうことがある。その主張者が本当にその分野の権威なのか、きちんと考えてから判断する。そうでないと、間違った方向へと誘導されてしまうことになる。
クリティカルに考えるためには、複数の、利害関係のない、専門性の高い権威者の一致した見解と、それ以外の見解を十分に識別しなければならない。
身近な誤謬をクリティカルに
まずは「偽りのジレンマ・誤った二分法」という論法がある。
私のことを好きならば、返信をくれるはず。きっと私を嫌いなのだ。
これが誤っているのは誰にでもわかるが、日常生活でこういうことがあると、ついこのように思い込んでしまうことはないだろうか。
いわゆる「全か無か思考」というのが危険なのは、こういう誤りに陥りやすいからである。
これ以外の論法として、「二者択一の強制論法」「妥当な選言的三段論法」などがある。
また「わら人形論法」は、相手の主張を攻撃しやすいように歪めて表現しなおし、わら人形のように容易に撃破できるようにするものである。有名な例を2つ挙げておく。
ダーウィンは、我々の先祖は動物園にいるサルだと言った。こんな暴言を許していいのか!
「貧乏人は麦を食え」というのか!(池田勇人首相の発言が歪められた)
クリティカルに考えるためには
このように、身の回りには多くの誤謬が潜んでいる。これらを誤謬と気づき、クリティカルに考えるためには次のことを頭に入れておく必要がある。
結論が正しく思えることと、論理の妥当性は別
人は自分が信じられることが、論理的に正しいと考える
その主張をしている「相手」と、中身の正しさを区別すべき
権威者や専門家は、何の専門家なのかが重要
前提に結論を含んでいないだろうか
二者択一では、他の選択肢の可能性を考えよう
相手の主張を、歪めていないか注意しよう
政治家の得意とする誤謬の論法に騙されないためには、日常生活の「罪のないホワイトな」誤謬にも気づき、それは論理的に正なのか誤なのかを考えていく。わたしたちがいま一番しなければならないことだ。これが、この回の一番の学びだと思う。