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みんながよってたかって、自分を37歳にした

 先月、37歳になりました。

 最近、近所のバーに通うようになった。「通う」というほどでもないか。おいしいお酒が飲みたいときに、お邪魔する感じ。バーという空間で、安くないお酒を楽しみながら、真夜中の雰囲気に浸るのも悪くない。大人っぽいでしょ? 大人はそれを「大人っぽいでしょ」と言わないだろう、という指摘はもっともです。

 そのバーのマスターは、(飲食店のスタッフらしい気遣いで)「〇〇(ぼくの本名)さんは何でも詳しいですね、知らないことなんてないでしょう?」と話しかけてくれる。しかし、そんなことはない。知らないことだらけだ。育児とか、新NISAとか、ローンの問題とか、転職とか。そういうことに関して、ほとんど知らない。

 どうでもいいことには詳しいのに、大人として知っておきたい/知っておくべきことについては、何も……何も。

 また、バーで飲んでいたら、信じられないことを言う人もいるわけで……。単に酔っているだけではなく、言動がめちゃくちゃ、的な。

 たとえば先日、60歳くらいの男性が「電車で窓の外を見るために、靴を履いたまま席に立膝で反対(窓側)を向いて座る子どもと、その親」を見かけると、注意してしまう……という話をしていた。

 そこまでは、よくある話でしょう。

 問題はその後。その男性いわく、「もし無視したら、子どもの顔面スレスレに窓を殴る。そうすれば、子どもは立膝をやめる」と言うのです。

 いや、怖っ! 近くに座っていたわけではないのに、リアルに(小さい声ですが)「怖っ!」と声が出てしまった。

 さらに、「もし親が反論してきたら、『あなた、面白いことを言うね』と笑顔で近づいていけば、相手は謝る」というのです。それも怖っ!

 本人とすれば、マナーの悪い親子を、人とはちょっと違った方法で諫める自分ってすごいだろう……という“スカッと”エピソードのつもりなのでしょう。ただ、それはもう、狂気なのですよ。10代の男子がやりがちな、自分はかっこいい、と思われるためのイキったエピソードではないか。

 ちなみに、その人は出版関係の仕事をされている(いた)らしい。確かにその業界にはいますね、自虐に見せかけた自慢をする人が。彼らは、「すごいですね(変わってますね)」と言ってほしいのだ。そこに重ねて、「いえいえ、私なんて全然……」と謙遜するポーズをできることが嬉しくて仕方がないのだろう。先輩たちとひたすら知識量で勝負し、マウントを取り合うことで自己主張する時代を生きてきた世代だから、しょうがないのだけれども。

 ひどい話を聞かされたせいで、そのときに何を飲んでいたかは覚えていない。ただ、教訓は手に入った。年を取ると、自虐やブラックジョークにもセンスが必要になる。面白い話のつもりが、自慢話、悪趣味、暴言として、若い世代に受け止められかねないからだ。

 今の自分は、たいした人間ではないだろう。しかしながら、それを引きずってこじらせていくと、ろくでもないことになる。静かに楽しくお酒を飲む場所で、冗談と暴言を履き違え、自虐のフリをした自慢話を展開してしまうように。

 あの男性は、未来の自分かもしれない。

 おそらく、自分は今、人生の岐路にいる。このように書くと、まるで何か大きな選択を迫られているように思うでしょう。そういうことではない。30代も後半になった。これから、ちょっとした日々の積み重ねが、数十年後の自分を決めるのではないかという話。

 年相応に、大人になりたいのです。

 「大人」を学んだエピソードを一つ。すこし前に、日向坂46のメンバーが体調不良で活動を辞退した。これについて、日向坂46で活動していた人(元メンバー)が、Instagramのストーリーで触れていた。

 そのメッセージを公開した場所が場所だけに、詳細な内容を書くことはしない。ただ、一つだけ。Instagramのストーリーを使った理由について、「気を遣わせるのも悪いかなと思った、スルーするのも体力を使うだろうから」みたいに書いていたのですね。

 これは、「年上の人間が後輩にメッセージを送るときの心構え」として、とても大事なことだと思う。「返事しなくてもいいよ!」と言われても、直接のやり取りだったらスルーも難しいし、気を遣ってしまうかもしれない。だけれども、黙っていることもできないシチュエーションもあるだろう。そこで、「いつか届くかも」という場所に書いておく。人づてに届くかもしれないし、相手の都合のよいタイミングで返事も可能になる。なるほどな、と感じたわけで。

 もちろん、必要であれば声をかけてくれというメッセージを送ることが、力になる場合もあるだろう。件のケースは、「元メンバーである」という自身の発信力も考えてのことだろうから。そういう意味でも、心遣いができているなあ……と、深く感心した。

 そういった大人の心遣いを身につけていかなければと、ぼんやり考えている。そう、大人にならなければいけない。年相応になりたい。未だに若い世代から学ぶこともあれば、年配の方に呆れることもある。前者を素晴らしいことだと感じたいし、後者のようにはなりたくない。

 しかし、37歳になっても、自分の中身は10代のままのような気がする。こちらはその年齢になりたいと思っていなかったし、その準備もできていない。戸籍上、そうなっただけのことだ。自覚はないのに、時間の積み重ねが、こちらを37歳にした。

 落語の与太郎物に、こんな台詞があったことを思い出す。「すぐに二十歳だ、二十歳って。俺、好きで二十歳になったんじゃねえや。みんながよってたかって、二十歳にしやがって」。

 そう、“みんな”がよってたかって、自分を37歳にしたのだ。

 自分としては人生の階段を順調に上がっている感覚もないのだけれども、周りから見ると30代後半。“みんなが”37歳としてこちらを判断する。「よってたかって」とは書いたけれども、嫌がっているわけではない。自分はそれを拒むことはできない……というニュアンスだ。正々堂々、受け入れなくてはいけない話。

 自分がどう思っていても、周りがそう見てくれるわけではない。若い世代は、それなりに生きている先輩としてこちらを見る。仕事を続けて生きてきただけで、どういうわけか、「生き残ってきた人」になっている。

 上の世代は辞めていき、下の世代は新しい感性を携えてやってくる。自己評価がどうあれ、“みんなが”「あなたは何かできるから、(まだ)ここにいるのでしょう」と見てくる。ロケットえんぴつのようなもので(この例えにもう世代が出ている気もしますが)、生きていくだけで、下から上に押し上げられていく。

 それに気が付かず、良くも悪くも「自分はまだ、それほどのキャリアではない」などと思ったままで話すと、“みんな”が引いてしまうのだろう。先述したバーで出会った男性も、ちょっとした武勇伝のようなつもりであの話をしたはずだ。ただ、年齢を重ねすぎたせいで、気付けなかったのかもしれない。そのようなエピソードが、今の時代にそぐわないことに。自分より若い人たちが、年齢の差ゆえに「それはちょっと」と諌められず、ただ愛想笑いしかできないことに。

 これから人生が大きく変わるということも、たぶん、ない。しかし、たとえば体力や体調などを考えれば、自分は確実に歳を取っているのだろう。毎朝、鏡に映る顔を見ればそれくらいのことはわかる。

 立場も、容姿も、変わっていく。そんな外側の変化に、内側がついていけるだろうか? もし、ついていけなかったとしても、周りがそれを配慮してくれるわけではない。

 “みんなが”自分を37歳にした。心の底から年相応になれたと感じる瞬間を、この1年以内に迎えられるだろうか。「37歳になること」が、37歳の目標です。

(最後に。年始から悪い事件が確かに起きているものの、それを受けて「今年は悪い年になりそうだな」「ひどいことがたくさん起こりそうだな」みたいなことは言いたくないというか……。例えば、地震に関しては実家もかなり揺れたので、そういう意味では自分ごとでもあるけれど。他人がどうしようもないことで不幸になっている事態を遠くから見て、「自分にとって、悪い年になるかも」と身の回りの運勢を占うような話をするのはズルいのではないか、と素朴に思う)


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