見出し画像

取り消せない「しくじり」と、それを生んだメンタリティー

うつが怖いあまりに

 数年前に抑うつ状態になって仕事を休んだ、という話を過去にnoteに書いたことがある。寛解したあとにカウンセリングにも行った、なんてことも書いた。

 もっとも、cakesがサービス終了となり、記事も残さないそうなので、noteの記事もいつ消されるか、わかったものではありませんが。noteで記事を書いている身分でなんだけれども、そこに関しては不信感を抱いている。おかげで、noteに何かしらの文章を投稿することに、なんとなく忌避感まで覚えるようになってしまった。この日記だって、何ヵ月ぶりかしら。

 閑話休題。それからおかげさまで、のんびり生きております……という話をできればよかったのですけれども……。今回は、それがなかなかできなかった、がテーマ。

 ここ数年、「悲観的、ネガティブでいるところを見せると、好きな人たちが離れていく……明るく振る舞わなくては、嫌われてしまう……」という呪縛にとらわれすぎていたように感じていた。

 もっとも、「明るく振る舞えた」かというと、それほどできていなかったりする。そのあたりは自分の甘いところではあるものの、たとえば、「お金を使わないようにしよう」と考えたときに、お金を使ってしまうと、「ああ、できなかった……」とストレスが溜まってしまうように、「明るく振る舞わなくては」は、自分にとって枷になってしまったのかもしれない。開き直ったほうが、まだ、よかったかも。

 どうしてそんな呪縛を抱いたのかといえば、やはり、再発が怖かったのではないだろうか。

 また、心が折れるのは怖い。仕事を失ったらどうしよう。人に迷惑をかけたらどうしよう。そんな恐怖にとらわれていた自分は、ずっと、「不安そのものを受け入れられなかった」のではないか。つまり、不安になることさえ、自分から遠ざけようとした。引き金を意識しないことで、強くあろうとした。というか、「もう、そんなに心が折れる自分ではないんだ」と思うようにした。

 しかし、往々にして、無理をしているときには、問題が待ち構えているもので。不安を受け入れられず、弱い自分を認められない人間は、どうなるのか?

自分の人生の評価を他人に握らせるな

 日本のサッカー界では、ときどき、「自分たちのサッカー」という言い方をする。いや、とくに、日本のフットボール論壇に切り込みたいわけではなく、例え話に使おうとしているだけなので、ちょっと恐縮ですが……。

 この「自分たちのサッカー」とは、自分たちの戦略&戦術をチームメイトが理解し、思うような試合運びができることを指す……というイメージになるだろうか。もっとも、具体的にどういうものか、きちんと説明されたことがあまりないように思えるけれども。「自分たちのサッカー」という言葉は、曖昧で、観念的でもある。そのことを指摘している文章も、それなりに目にする。

 そもそも、サッカーでは……というよりも、対戦相手がいるスポーツは、総じて、すべては思い通りにならないもの。それはそうだ、相手がいるのだから。常にやりたいことをさせてくれるわけもない。自陣がやりたい策と、相手がやりたい策とのせめぎ合いの中で、スタイルを貫くか、臨機応変に崩していくかの判断も求められる。そういうときに、いかに「自分たちのサッカー」を組み立てるか、優位を確保していくか。

 プロスポーツの世界では、思ったようにいかないこともたくさんある。もっと言えば、勝負事は、ベストを尽くしても負けるときはある。それなりにスポーツを観戦した経験はあるので、自分も、それを知っているはずだった。しかし、自分は、少なくとも、メンタルを崩した時期から、常に理想とほど遠い現況が許せなかった。「ベストを尽くしてもダメなときがあるが、それでも明日に向かう」アスリートの姿を見ていたはずなのだけれど……。

 それと同時に、ややこしくなってしまうが、「自分を否定すること」が、メンタルを壊す最大のきっかけになることを、自身の経験から理解してもいた。悪い意味で揶揄される「自分たちのサッカー」のように、曖昧で観念的な理想、「明るく振る舞う」「心が折れないようにする」というを考えを持っていながら、現実的にはそれをなかなかやり遂げられなかった。その現実にストレスを覚えつつも、認めなければいけない、そこから再出発しなければならないと自覚してもいた。その相克に、ずっと悩んでいた。

 自分に自信を持てない。一方で、持たないといけない、という意志はある。その意志が、不安になること、恐怖心を覚えることを、拒否した。理屈では、それを認めるところからスタートしなければいけないと、わかってはいたのだけれども。

えらくもないし、家庭もないし

 すこし話は変わるけれど、30歳を過ぎて、仕事の地位、家庭(パートナーの存在、と言い換えてもよいかもしれない)などを持っていないことの不安が生まれてきたことも、なんとなく自覚していた。それはあまりに古い考えだ、因習的にすぎる、とあなたは思うかもしれない。自分も、理屈ではまったくそう感じていながら、しかし、昭和末期に生まれた人間は、その社会の中にあった価値観をすべて忘れることは難しい。

 30代になって、「仕事で成果を残して“いかなければならない”」「誰かに認めて“もらわねばならない”」「好きな人と暮らせるように“ならねばならない”」という考えが自分の中に芽生えていることを、強く感じていた。そうしなければならない、間に合わないかもしれない、という焦燥感。おそらく、「今もある」と書いても、間違いではない。時代遅れの社会常識に揺さぶられているのか、自身のアイデンティティをしっかり持ち合わせていないことによるものなのかも、よくわからずに。

 もっとも、これらの「そうしなければならない」は、義務感というより、弱くて不安定なところがある自分を許せずに、仕事や他人から絶対的な評価をもらおうとしていたからだと思う。理想を掲げながら、その内容を明確にできず、それゆえに現状の答え合わせができないまま、他者からの肯定や承認を至上の価値にするような振る舞い。

 それはとても、怖いことだ。自分の人生の評価を、誰かにゆだねることなのだから。「生殺与奪の権を〜」という、あの有名な台詞を持ち出すまでもない。

 もしかすると、30代になる前からずっと、心がそう思っていたのではないかと思う。自分を信じられず、代わりに別の何かで埋めようとしてきた。

 その結果が、取り消せない「しくじり」を生む。

 となれば、それらの一つ一つを詳細に書いたほうが、記事としてふさわしい気がする。その内容が重たければ重たいほど、読み手にとって強い印象を与えるだろう……ということを、書き手である自分も理解している。

 ただ、それらを書くことを、躊躇してしまう。長くなるという以前に、やはり「みっともない」という感情が先に立つ。たとえば、仕事が関わることだったり、人が関わることだったりするから、詳細に書くのはモラルとしてどうか、とも思う。

 しかし、「具体的にこういうミスをして、このような迷惑をかけました」ということをぼやかすことで、迷惑を被った側は「なんたる不誠実、なんたる欺瞞」と思うかもしれない。いずれにしても、そのような声が心の中に聞こえてくることが、罪の意識を感じつつ、(自分に都合のよい言い方をすれば)その原因を美談にしないように自戒し続ける精神の反映なのだろう。

 ざっくりとまとめれば、いろいろなことがうまくいかず、そうなっている自身を嫌悪し、その結果として後ろ向きで卑屈になった人間が、成功に目を向けず、失敗を恐れ続けて中途半端な行動に終始する……というパターンを繰り返していた。周りがどう思っているかはわからないものの、自分の認識としては、ここ数年は間違いなくそうだった。

 一方、幸か不幸か、30代も半ばになって、単なる自己否定ではなく、このままではどうだろう、良い方向に変えなくては、とも思うようになってきていた。この年齢になると、いろいろある。周りが成功することもあれば、失敗することもある。親の世代が老いてくる、子の世代がやってくる。そんな中で、ボーッとしているわけにもいかない。もうすこし、自分の生活をより良くする方に向かいたい。でも、なんだか、しくじってしまっている気がする……。

 周りの人々は、出世したり、家庭を持ったりしている。今年になって、「自分は、人生のどこかでしくじってしまったのか?」という思考が、頭の片隅にぽつんと現れ始めた。実際、そうなのだろうか? いや、たぶん、そうではない。むしろ、現状が「しくじり」になっているのだ。

オードリー若林の「心がしくじっている」気付き

 この記事を書く、ほんの数日前。「しくじり」という思考から、ふと、オードリーの若林正恭の発言を思い出した。

 オードリーが、『ヒルナンデス!』でIKEAの椅子を“破壊”した事件がある。その放送のすぐあと、『オードリーのオールナイトニッポン』で、若林は、そのときの心境を「ずっとしくじっている」と評していた。これは、若林が『しくじり先生 俺みたいになるな!!』のレギュラーであることから生まれた発言だ。

 『しくじり先生』では、さまざまな芸能人や著名人が「先生」となり、自身の人生の「しくじり」を語り、スタジオの芸能人たちは、それを反面教師として学ぶ。長年、『しくじり先生』に出演し続けた若林は、「先生」たちの話から、「しくじり」の典型的なパターンに気付く。

 この『しくじり先生』にやってきて授業をする人は、「大きな事件を起こした」ことが、メインの「しくじり」だと思われがちだ。しかし、若林は、「しくじり」を犯してきた「先生」たちの共通点を、以下のようにまとめる。

 「事件を起こす、ずっと前から、心がしくじっている」

 若林によれば、「しくじり」は、突然起こるものではない。それ以前から、「しくじり」を起こすような状態になり続けていて、どこかのタイミングで事件が発生することにより、それが可視化されるというのだ。

 テレビの視聴者や、世間の人々は、大変な問題になったことで、「しくじり」を知る。ハラスメント、炎上発言、恋愛騒動、金銭問題……。しかし、その問題が起こるまで、しくじる人は、ずっと「そういう(しくじりをいつ起こしてもおかしくない)状態」でやってきた。だから、遅かれ早かれ、「しくじり」が生じるメンタリティーを持っていた……と若林は解説する。

 たとえば、スタッフに横柄な態度を取り続けていた人が見放されたとき、奔放な恋愛をしていた人が週刊誌に暴かれたとき。「しくじり」は、その瞬間、唐突に生じたのではない。そういう人たちは、以前からずっと、他人への態度や、倫理に反する行いなどで、「しくじり続けていた」ということになる。ずっと続いていたものが、たまたま明るみに出たタイミングで、皆がそれを「しくじり」と認識するようになる。

 我々の日常にも、そういう光景があるかもしれない。企業のプロジェクトが破綻を迎えるとき、近所の店舗が閉店したとき、恋愛関係が破局に終わったとき、それらは突然に生じるものだろうか。ずっとうまくいっていたものが、急転直下、ダメになることはめずらしいのだし。それ以前から、何かが「しくじり続けていた」ことの帰結として、ではないだろうか?

 オードリーが椅子を破壊したときのわずか数分の間も、「しくじり」のメンタリティーがあったという。

 件の椅子破壊事件は、オードリーが漫才のようなかけあいをしながら、視聴者プレゼントを紹介するときに起きた。相方の春日俊彰が無茶な座り方をしたときに、若林も一緒になって、何度も激しく押し込んだ。春日もそれに応じて、椅子の上で何度も跳ねるようにしたため、衝撃に耐えきれず椅子が壊れた(この際、若林は「こわれましたー!」と無感情に叫んでいる。本人の気質によるものか、場を取り繕おうとしたのかは不明)。

 その一部始終を後から振り返って、若林は「なんで、自分は押したんだろう?」と思ったという。春日の動きを見て、「こんな座り方をする人はいないんですけどね、それでもこの椅子は壊れないというね……」と、春日にツッコミを入れるぐらいでも、芸人としてのかけあいは成立したのに。若林が何度も椅子を押し込む作業は、冷静に考えれば不必要なはず。

 若林は、その心境を、「無理に駐車しようとして、車体を擦ってしまった」状況に例える。「このままではいけないな、でも、いっちゃおうかな」と思い、ちょっと止まって確認したほうがいいだろうと考えつつも、つい、そのまま続けてしまった……その心が、「ずっと、しくじっている」と若林はまとめる。

 若林の言葉で説明するなら、オードリーはIKEAの椅子を、不意に、偶然に壊したのではない。最初から最後までずっと「しくじっている」メンタリティーで、椅子に不必要な衝撃をかけ続けた結果、当然の帰結として、椅子が壊れ、「しくじり」は可視化されたのだ。

自分の味方は自分であるべきだ

 オードリーのエピソードを思い出したとき、現在進行系で、「しくじり」のメンタリティーを持っているのが、まさに今の自分ではないか? と思った。抑うつ状態をおそれるあまり、自分を否定し、他人とうまく関われず、仕事の浮き沈みを過剰に気にして、結果的に、誰よりも自分を追い込んでいるのではないか……。この先に待っているのは、より大きな「しくじり」ではないのか……。

 いや、今も、しくじっている。まだ自分は倒れていない。仕事もできている。でも、明らかにしくじり始めている。少なくとも、健全なメンタリティーで、毎日を生きていない……。

 メンタルを病むことを恐れていた自分は、抑うつ状態に陥ったことを、ざっくり言えば「しくじり」だと信じていた。繰り返してはいけないと考えていた。

 そうではなくて、ずっと、しくじっていたのでしょう。

 仕事で一喜一憂し、誰かに、何かに肯定されたがっていたとき、「このままではよくない」と思いながら、ずるずると、みっともない生を続けていた。それこそが、しくじりなのだ。しくじりのメンタリティーを持ったまま、もがいていたにすぎない。

 たしかに、自分は肉体も精神も強くなかった。そうであっても、心が折れた日から、折に触れて、「弱い、それではいけない」と言い続け、自分の弱さをもっとも認めてこなかった人間は、他ならぬ自分だった。

 弱くてもいい、頼りなくてもいい……とまでは言わなくても、自分の弱さや頼りなさをまず受け入れる、初手から否定しない、これだけのことがずっとできなかった。では、どうするべきか。

 自分の味方は、自分であるべきだ。

 そんな素朴な解決策でいいのか、とも思う。だけれども、素朴だから、単純だからという理由で、否定される発想でもないような気がする。

 メンタルを病んでダメになったときからずっと、体調がよくなかったり、機嫌が悪くなったり、不安を抱いたりする自分を、なかなか許せなかった。しかし、必要な発想は、その逆ではないか。自分に必要だったのは、「体調がよくなかったり、機嫌が悪くなったり、不安を抱いたりする」こと自体は、誰にでもあると認めることだったのかもしれない。強くないときもある、情けない部分もあると認める。それだけのことに、数年もかかってしまった。

 別の言い方をすれば、無理に変わろうとし過ぎたのかもしれない、何かを成し遂げるような変貌を遂げずとも、その日を一つ一つ、後ろめたくなく暮らしていくだけで、よかったのだと思う。今になって振り返れば。

 数年後、40代になったら、「できないこと」や「間に合わないこと」などが、今以上に、自身にも周りにも増えてくる。30代の半ばでさえ、そうなのだから。それらに悩んだり苦しんだりしないようにしよう……ではなくて、悩んだり苦しんだりする自分自身を、「まあ、そうなるよね」とまず“認めて”あげられるかどうか。そこが問われている。

 取り消せない「しくじり」の苦味を噛み締めながら、それを生んだメンタリティーを変えようとすること。

 それを続けることのみならず、こういう心境にいたるまでに、それなりの「しくじり」を重ねてきたと認める必要もある。ここまで書いてきたことは、立派な発想でもない。スマートな解決策でもない。評価されるべき話でもない。相応の傷跡を心に増やしながら、反省の末にやってきた道を歩いているのだと思う。「ここまでのすべての文章が、長く怠惰な言い訳にすぎない」と言われたら、返す言葉はない。

 もし、自分が(昔よりも)丸くなったのだとしたら、刺々しかった頃に、いろいろな人や物事にぶつかって、角が取れたからなのだろう。その際に傷ついた人に謝ることは、いや、それ以前に、その人たちと面と向かって話すことさえ、人生の中では容易ではない。実際、“取り消せない「しくじり」”とタイトルに入れておきながら、その詳細を書いていないのは、幾多もの後ろめたい感情を、自分がずっと抱えているからだ。それを消せたら、どんなに楽だろうと思う。しかし……。

 過去の「しくじり」は取り消せない。後ろめたくない1日を、これから積み重ねていくしかない。おそらく。

いいなと思ったら応援しよう!