死の超克と存在証明
ここしばらく、8月があっという間に過ぎ去ったことについてぽつぽつ考えていた。よく歳を取ると時間の流れが速く感じるというが、正味20過ぎた時点で十分に速くなった。新たな刺激が多く、一つ一つ受け止める幼い時分が特別遅いというだけで、時間は本来このぐらいの速度で進むものなのだ。
8月の初頭、親戚の配偶者が急死した。脳内出血を起こし病院に運ばれ、そのまま意識が戻らないまま一週間も経たずに亡くなってしまった。人が急死するのはだいたい脳か心臓が関係してくる。もともと血圧が高く、足が悪い人だったとはいえ気の毒だ。とはいえ、親戚の集まりで一度二度言葉を交わしたぐらいの関係性で、名前すら思い出せない人だった。それほど衝撃はなく、これから忙しくなるだろうな、と思うぐらいだった。
それから間もなくにして葬式と火葬が執り行われたのは、さすが経営者の手際だなと思った。想像だが、死亡届といった役所の手続きもテキパキと終わらせたのだろう。故人夫婦は特定の宗教は信じていなかったが、趣味の神社巡りを反映したのか、珍しく神道式のお葬式に参列することになった。正座でお経を聞かされるのが一番の心配だったので、正直ちょっとほっとした。神職の方が儀式に合わせて祝詞のようなものを粛々と唱える時と、参列者に優しく問いかける時の喋り方の違いが印象的だった。
式のあとの会食は喉が通らなかった。蒸し暑さと周囲の人間の感情で神経が疲れていたのもあるが、何より自分側の親族が元気に食事する様子があまりに気味が悪くて食欲は自然となくなった。
どうでもいい人のどうでもいい葬式。正直、今でもそう思っている。なにせ弔事は遺族のためのもの。生きている人間が前を向くために、参列して敬意を表すことが重要なのであって、私の考えや感情はこの際それこそどうでもいい。思えば、今年は5月にも同じ脳出血で倒れた祖父を弔うため、家族会合兼メモリアルサービスのために渡米した。父の自己満足に付き合わされ、付属品の名誉家族のように扱われたあちらに比べれば、こちらの格式ばったお葬式の方がマシだ。
ただ、理屈では「どうでもいい」と受け止めたところで、感情はそう簡単に割り切れるものではないらしい。お盆休みでを一週間まるまるゲームに捧げたところで、どこか気分は晴れないまま過ごしていた。
それにしても、8月は体調がおかしくなりっぱなしだった。睡眠時間は乱れるし、体が暑くなったり冷えたりするし、焼肉が原因で食中毒になって寝込むし、散々な1ヵ月。奇しくもそんな月に健康診断を受けた。大学を卒業してから一度も会社に正式に所属していないため、久しぶりの健診だ。
終わってふと、しばらく健康診断を受けなかったことよりも、自分の意思で申し込んで受けたことが怖かったと気付いた。なぜ怖いのか自分に問うてみたら、死がちらつくことが怖いのだという。健康診断を受ける理由は健康を保つためだが、そもそも健康を保つ理由は死を遠ざけるためだ。つまり、健康診断を受けるという行為は、自分が生死と向き合う瞬間と言えなくもない。我ながら仰々しい表現だと思うが、死が記憶に新しい今年だからこそ芽生えた感情なのだろう。
人間いつかは死ぬ。敬愛するすぎやまこういち先生も2021年に亡くなった。医療の発達で寿命が90年まで伸びても、死すべき運命からは逃れられない。でも、やはり自分が死ぬ時は納得して、安らかに死んでゆきたいという願望はある。ガンといった防ぎづらい疾患も嫌だが、それより交通事故なんかで不条理に命を奪われるのは勘弁願いたい。当然死にたくはないが、どういう形であれ天寿を全うできるのが一番に決まっている。
死の超克は不可能だ。しかし一方で「人が本当に死ぬ時は、忘れ去られた時だ」なんて言葉もある。言われてみれば、確かに歴史上の偉人はあんまり死んでいる感じがしない。数千年前に没したソクラテスですら未だに議論の中心で、人を導き人のために死んだ市井の人間は、今や原罪を背負った子だと多くの人々が信じている。しばしば有力者が歴史に名を遺すことに躍起になるのは、そうした理由もあるのかもしれない。世を生きる一般人だって、意識せざるとも爪痕を世に残したいという気持ちがあるだろう子孫を残したり、仕事を通して自己実現をしたり、あるいは国家転覆を狙う革命軍だってそうだ。
私が偉人として歴史に名を刻まれることはない。突出した偉業も社会貢献もなく、せいぜい英語が多少できてキーボードを叩くぐらいしか能のない人間だ。それでも、自分の書いた本は出したいし、自分の感情や論考、人生を通して人に影響を与えるのが子供の頃からの夢だ。50歳にもなったら、中年もすなる後進の育成といふものだってしてみたい。一生をかけて自己の存在証明を少しでも残すのが、死を知った人間の本能的な欲動なのかもしれない。8月は矢のように過ぎた。それでも焦りすぎず、でもたまにはこうやって焦ってみて、どんな一歩も大きなものだと信じ続けていたい。ずっと前に進まなくても、北極星が見えていれば向かう方向は分かる。自分を騙すことなく、真摯に死と向かい合ってほどほどに怖がる。もしかしたら、死神とはそれぐらいの距離感がちょうどいいのかもしれない。