meria 一章 - 1
歩き出してどのくらいの時が経っただろうか。
愛菜は広く生え育った麦を掻き分けて畑を進んでいた。
いつまで経っても麦、麦、麦。麦以外何も無い。
もはやこの畑が人の手によって作られた畑なのかも怪しく感じてきた愛菜は落胆し、麦の上に大の字の仰向け状態に倒れ込む。
「ハァ、本当に麦しかない……」
もう歩きたくない。麦なんて見たくもない。
そんなうわ言の様な言葉をを呟きながら、虚しいくらいに綺麗な青空を見つめた。
こんな綺麗な青空、今まで見たことないや……。
そう、ぽつりと思うと今度は心地よい風が愛菜の髪を撫でるように通り過ぎていく。
風と一緒にどこからか流れてきた雲を暫く見つめていると何やら体が重たく感じ出す。
そんな感覚と一緒に愛菜は、この見たことないくらい綺麗な空も、誰も居ない大きな麦畑も何もかもが夢ではないだろうかと思い始めた。次第にまぶたが重くなり、うとうとと意識が薄れ始める。
そうだ。これは夢なんだ。
こうやって、授業中に眠っていたりするんだと安心したのか心地よい眠気が愛菜の体を包んでいった。
「あの……」
誰かに呼ばれた気がした。
だが愛菜は夢の続きだと思い、また眠気に体を委ねる。
暫くするとまた声がした。可愛らしい女の子の声だった。
「あの、大丈夫ですか?」
聞き覚えの無い声と体を揺さぶられる感覚で、愛菜の意識が次第に覚醒していく。
ゆっくり目を開くと、自分とそう変わらない年頃の少女が心配そうに愛菜の顔を覗き込んでいた。
「……ここは?」
「ここ?わたしの住む村の畑ですよ」
眠気眼で重たい体を起こしながら言った愛菜の言葉に、少女はにこっと笑顔で答えてくれた。
大きく綺麗な緑色の目とふわふわとした小麦色の髪を持つ、可愛らしい少女だった。
「大丈夫ですか?こんな所に倒れていてびっくりしました」
起きた愛菜を見てほっとしていた少女とは裏腹に、愛菜は目の前に広がる麦の畑を見て愕然とする。
麦なんて見たくもない。そう願ったこの光景が現実であることに愛菜はショックを隠せなかった。
「やっぱり夢じゃないんだ」
そう呟き立ち上がると足元で踏み潰された麦が音を立てる。
「あ、ごめんなさい。村の作物こんなにぐしゃぐしゃにしちゃって」
人の形に潰れてしまった麦を見下ろしながら、申し訳ないと少女に謝る。
少女はそんな愛菜の顔を覗き込み、明るい声で問題ないと無邪気に笑う。
「まだいっぱいあります。気にしないでください。それより」
少女は不安そうな顔で立つ愛菜を上から下まで見る。
何やら物珍しそうな様子で愛菜を見ていた少女は何か納得したように手を叩き、こう問いかけてきた。
「ひょっとして、旅人さん?」
「え!?」
その言葉に驚く愛菜を見て少女が違うのかと首を傾げる。
「いや、その……ちょっと道に迷ったみたいで、あとなんか記憶も曖昧で……」
なんと説明していいのやら。
戸惑いながらここが何処であるのかを尋ねようとする愛菜だったが、少女の名前が分からず口ごもってしまう。
「わたし、エステル。エステル=カミルって言います」
困った様子の愛菜から察したのか少女が笑顔でそう名乗た。
少女エステルはニコニコと満面の笑顔で愛菜の言葉を待っているようだ。
「私は……愛菜、新見愛菜」
「アイナ?なんか変わった響き。何処から来たの?ひょっとしてこの国の人じゃないの?」
どうやら愛菜が珍しく思うのか、興味津津と次々に質問を投げかけてくるエステルの笑顔を見て、愛菜は何とも言えない複雑な気持ちになった。
そもそもここが何処なのか分からないし、なんで自分がここにいるのかも分からない。
とはいえ戸惑ってただ黙っているだけでは何も始まらないし、自分に対して興味を持ってくれているエステルに対しても失礼だろうと愛菜は思った。
勇気を出してエステルに向かって口を開く。
「あのね、エステル。変な質問していいかな」
「何なに?」
「ここ、何処かな」
きょとんとするエステル。
予想していたとはいえ、こうも想像通りの反応をされてはもはや笑うしかない。
「その、とりあえず今居る位置を確認したいなーなんて」
「あっ、そういう事ね!」
旅人と勘違いしているエステルを利用し、それっぽい事を言って誤魔化す。それを聞いて納得してくれたが気分は複雑だ。
エステルはコホンと咳払いの真似をして、ちょっと演技のかかった説明口調で教えてくれる。
「ここはレイ王国の領土内にある、カミル村という小さな農村の畑です」
「レイ王国?」
「はい。レイ国王陛下の治める小国です。……知らずにここに来たの?」
「う、うん……」
エステルの話は聞けば聞くほど愛菜は不安になった。
もちろんレイ王国なんて聞いた事も無い国の名前だった。いきなり外国に放り出された気分とはこういうものなのだろうか。
目の前でおかしいなぁと首を傾げるエステルは逆に質問をしてきた。
「アイナの生まれた国は?」
「に、日本って国。分かる?」
恐る恐る言ってはみたが、聞いてきたエステル本人は片言のオウム返しをしながら首を傾げている。
全然、まったく、聞いた事がないそうだ。
愛菜は更にこんな質問もしてみた。
我ながら馬鹿馬鹿しいと思いつつも、もしかしたらと思い切る。
「じゃあ、地球ってわかる?」
エステルはふるふると首を横に振った。今度は悩む事も迷うことも無く。
愛菜は諦めてこれ以上の質問を止める。そう、今分かった事はここが日本でも地球でもないという事だった。
それっきり何も言わなくなった愛菜を見て、エステルは顔を覗く。
目から涙が滲んでいた。
「どうしたの。わたし何か酷い事言っちゃったかな」
「ううん、そんなことないよ。エステルのおかげでここが何処なのか分かったから」
愛菜はゴシゴシと音が鳴るくらい目を袖で擦る。
エステルも励ましの言葉をかけ、愛菜の落ち込んだ気分が収まるまでと他愛も無い会話を始める。
その時に記憶があまり無い事も打ち明け、これからどうしたらいいのかと悩みを打ち明けてみた。
「城下に行ったら人もいっぱい居るからアイナやアイナの住んでいた国の事を知ってる人が居るよ、きっと」
「そうだといいな」
「わたしのお父さん村長なの。お父さん何か手がかり知ってるかも。ねえ、村に行こうよ」
畑に居るだけでは事態は変わらない。
愛菜は立ち上がって今出来る最大の笑顔を見せた。
「うん、そうだね。このまま麦畑で立っていてもしょうがないもんね」
「そうだよ。とりあえず村に行こう」
愛菜の表情も少し明るくなった。その様子を見てエステルも満面の笑顔になる。
愛菜は村のある方向へ指を指して案内するエステルに手を引かれ歩き出した。
土地勘の無い愛菜が居るため人が通るように整備された道を歩く方が安全と考えたエステルは見えてきた畑の端を指差す。
「街道だよ。畑を避けて作ってるからちょっと遠回りになるけど、ここより歩きやすいよ」
振り向き様にそう言うエステルに愛菜は違和感を覚え始めていた。
普通の人と何かが違う気がすると、愛菜は足を止めてエステルを見つめる。
「どうしたの、アイナ」
急に足を止めた愛菜にエステルが首を傾げたことで何が違うのかが分かった。
エステルの心配そうな顔と、その頭部にあるソレが愛菜の目に映る。
彼女の頭部に小さな角が生えていたのだ。
「それ角!?」
角を見て驚いた愛菜の声にエステルも驚いた声を上げ、自分の角を確かめるように触る。
「わたしの角、そんなに変かな」
「ど、どうして角なんて生えてるの!?」
エステルの頭に生えている角は少し小さいが羊のそれによく似ていて、丸く内側へ弧を描いている。
今までまったく気が付かなかったが、確かにそれは愛菜の知っている人間が持つものではなかった。
顔を青くする愛菜を見て、エステルは本当に不思議そうに愛菜の疑問に、疑問で答える。
「角の無い人なんているの?」
冗談を言っている様な顔には決して見えなかった。
いきなり麦畑に放り出されて倒れた後、角の生えた人間に助けてもらった。そんな非現実的な出来事が次から次と起っている。
愛菜の頭の中は理解し難い出来事、見たことも無いもので頭の中がいっぱいになっていた。
そしてそれを拒否するように愛菜の意識が、プツリと音を立てて消える。
「アイナ!?」
いきなり意識を失って倒れた愛菜に駆け寄ると愛菜の顔は真っ青になっていた。
「ど、どうしよう」
体を起こそうか、それとも誰かを呼びに行こうか。どうすればいいのか迷いおろおろとしているとエステルを呼ぶ声が聞こえ、ハッとする。
形は大きく違えどエステルと同じく角を生やした青年が農具を担いで駆け寄ってきた。
幼なじみである青年を見てほっとしたのか涙目で彼の名前を呼ぶ。
「クラエス」
「お前、帰ってこないと思ったら何してんだよ」
「倒れてっ、顔が真っ青で!どうしたら……どうしよう!」
「分かった!落ち着け」
焦りと混乱で最後は説明にすらなっていないエステルの言葉に呆れながら、クラエスは倒れた愛菜の姿を見て直ぐ様理解した。
「何があったかは後だ。早くおじさんに知らせてこい」
「ありがとうクラエス」
エステルに涙目でじっと見つめられ、赤くなりながらはやく行くように叱りつける。
無言で頷き、急いで村へ向かって走り出したエステルを見守りながらクラエスは持っていた農具を置いて、倒れた愛菜を背負う。
「重いな。急ぐか」
華奢に見えた愛菜を背負うとずっしりとした重さが背中に掛かる。クラエスは表情こそ変えないが意外と思わず声を漏らす。
この重さで近くの街道を歩いていては時間がかかると判断し、クラエスは畑を突っ切って村へ向かう事にし、走りだした。
途中何度か背負い直しながらも走り続けていたが、先程より離れた街道に見慣れぬ影を見つけ思わず足を止める。
馬車だ。しかも農業用ではなく、遠目でもわかる良質な馬車であることにクラエスは更に不審に思った。
「なんでこんな田舎に」
そしてちらりと背負った愛菜を見る。
迷った挙句クラエスは馬車に向かって走り、街道へ駆け上がった。勢い余って馬車に突撃をかけそうになりながらも窓を叩き中にいる者へ接触を試みる。
すると御者台にいた男からものすごい剣幕で怒鳴られた。
「無礼者!乗っているお方を知っての狼藉か」
「知らん!そんなことより一大事なんだ。おい中の奴も顔だけでもいいから出してくれよ」
その言葉に答えるように馬車の窓が静かに下りる。
クラエスはその馬車の持ち主の顔を見て思わずぎょっとし、言葉を失った。
「これはまた、騒がしい青年だな。何用かね」
中からは壮年の男が顔を出し、落ち着いた声でクラエスに問いかける。だが、クラエスは男の奇妙な出で立ちに釘付けとなり問いに答えることが出来なくなっていた。
男は大きく後ろへ弧を描く美しい角を持ち、額には奇妙な紋章が描かれていた。豪奢な装飾の衣装に身を固め、ニヤついたようなねっとりとした目でこちらを伺っているのが不快感に拍車をかける。
どこぞの貴族なのは理解できたが、同時に関わってはいけない人間だということもクラエスは本能的に察知し、後悔した。
「おや。そちらのお嬢さん、顔色が優れないようだが、どうかしたのかね」
「いや、どうもしねーよ。ただ、あんた達の知り合いかと思って……」
「あいにく、むさ苦しい男三人旅の最中でね。その可愛らしいお嬢さんは私の知り合いではないよ」
「そうか、邪魔したな」
ちらりと馬車内にもう一人男がいることを確認した。
貴族風の男とは違い、甲冑に身を包んだ物騒な格好をした男が我関せずと視線を逸らしている。
「まぁ、待ちたまえ」
こうして話している間、クラエスに向けて持っていた弩を構え続けている御者のせいで逃げるタイミングを逃してしまった。
矢を向けられたことに焦ったクラエスは声を張り上げる。
「急いでんだよ!」
「ならばこの馬車に乗ればいいではないか。その状態のままではその可憐なお嬢さんが可愛そうだろう」
そう言って男は馬車から降り、中へ入るよう促す。
具合の悪い愛菜がいるため急がねばならないことは事実だった。だが、それ以上にこの怪しい男に関わっていいものか迷う。
葛藤するクラエスだったが背中が急に軽くなった為、まさかと振り返る。背負っていたはずの愛菜を抱き上げ、馬車に乗り込んでいく男の背を見て慌てたのか、そのまま乗り込んでしまった。
「安心したまえ、礼は不要だ。我々も君の村に入る言い訳を考えていたところだったからな」
「な、何の話だ」
「特に、このお嬢さんにはお礼をたっぷりして差し上げなければねぇ」
正面に座る男の顔がニヤリと歪み、膝を枕に寝かせていた愛菜の頬を撫でながら不気味な笑い声を漏らした。
それを見せられたクラエスの背にゾクゾクと寒気が走り、急いで愛菜を自分の元へ奪い取る。
「冗談だよ」
くすくすと笑ってみせる男だが目が笑っていないところ、信用出来ない言葉だ。
馬車の中から見える村がだんだん近づくにつれ、嫌な胸騒ぎが次第に大きくなっていく。
「それってウチの国の紋章だよな」
よく見ると隣で我関せずを貫き通している男の甲冑には黄色い羽のような紋章が描かれていた。
こんな田舎者でも自分の国の象徴くらいは知っている。と、クラエスは質問の答を求めて正面で座る男に視線を集中させる。
「納税なら問題なくしてるだろ。なんの用で国の役人がこんなトコに来てるんだよ」
「別に税の取り立てに来ている訳ではないよ。こう見えて私は政治家と言うよりは兵隊だし」
確かに、肩をすくめて否定する男は独特な赤い軍服を身にまとっている。それは確かにこの国に所属する衛兵士特有の服装だ。
だがおかしな部分もある。彼の胸に大きく描かれた紋章。それは王家と国を象徴する羽の紋章ではなかった。
白い双頭の白い蛇が螺旋を描く紋章。その紋章がこの男の生まれを象徴していることは容易に想像できる。
「お貴族様が衛兵ごっこかよ」
田舎で麦ばかり作る生活。決して楽ではないし、お世辞にも裕福とは言えない生活をしているクラエス達からすれば彼らはあまりいい気分のしない人種だ。
多額の財産が生まれながらにあり、その地位をこれ見よがしに主張してくる彼らは、一般階級の人間からは煙たい存在でしか無い。おまけに決して高いとはいえない身分の職に付いている。神経逆撫でしているとしか思えなかった。
「口の利き方には気をつけ給え」
身分の違いから来るやり場のない不満をつい漏らしてしまったクラエスに対し、男は冷静に言葉を返した。
するとクラエスの身体が急に何かに反応し、顔をあげる。怯えながらも男をまっすぐ見つめたまま捉えて離そうとしない。
ふっと笑う彼の額で何かが動いた気がした。
「へぇ、良い感してるようだねぇ」
がっしり頭を捕まれ指の間から見える男の不気味な笑った顔がそう言った。その瞬間から奇妙な耳鳴りがクラエスを襲い、頭に直接響くような声が聞こえた気がした。
名前を寄越せ。
たしかにそう聞こえた。
「あ……ぐっ……」
「君、ちょっと嫌いだなぁ」
もう少し食いしばる力が弱ければ、名前を口にしていただろう。
彼の手から開放され床に転がったクラエスは全身から吹き出す汗を拭いながらようやく理解した。心を操る魔術師がいるという話を聞いたことがあるが、この男がまさにその魔術師なのだろう。
先ほどの奇妙な声を聞いてから全身が震えて思うように動かせない。それでも必死の抵抗か、クラエスは目に涙を溜めながら男の顔を睨み返していた。
それをニヤついた顔で見下ろしていた男だったが急に真剣な顔をしたかと思えばクラエスを蹴り上げ車内の端に追いやる。ゴロゴロと転がり腰掛けに顔をぶつけたクラエスは恐怖も消し飛び怒り顔で起き上がった。
何をするんだと叫ぼうとした彼の目に先ほどまでぐったりしていた愛菜が起き上がっている姿が映る。
「だ……」
「大丈夫かね、お嬢さん」
台詞を取られた。
男の行動に唖然としているクラエスは眼中から消し、それどころか男は愛菜の両手を握り、彼女の顔しか見えないくらい顔を近づけている。
「あ、セット君?そこを退きたまえ」
「あんたさぁ、その病気なんとかなんねぇの」
セットと呼ばれた甲冑男は辟易とした様子で大きなため息をした後、反対の席に移動した。対してにやけ顔の男は顔どころか体も密着させて愛菜へ愛想を振り撒きだす。だが、当の愛菜は状況が読み込めていないのか呆けた顔で辺りをキョロキョロと見渡している。
そしてようやく視線が目の前の男と合致した。
「気分はどうかな、ん?」
「あ、あの……」
愛菜は男を見た後、そばにいる青年と甲冑を着た男を見て、もう一度自分の手を握る男を見上げる。
彼ら全員、頭から大きな角が生えていた。
愛菜は「角……」とだけ呟きまた意識を失うのだった。
座り直し、自分のひざ上に愛菜を寝かせた男は難しい顔をして黙りこんでしまう。愛菜がうっすら見せた拒否と拒絶の表情が脳裏から離れず衝撃を受けている最中なのは理解できた。
「何振られて理解できないような顔してんだよジジイ」
「なっ!きっ聞き捨てならないぞ!わっ、私はまだ五十一でジジイなどと言われる歳では無いぞ」
「吃ってるぞ、ジジイ」
「吃ってねーし!!」
動揺で噛みまくっている男にズバズバと遠慮のない突っ込みを入れていくクラエス。その横で堪えながら笑いを漏らすセットを見て男の顔が更に屈辱そうに歪む。
膝上で苦しそうに愛菜が何度か角、角と呟くので、男はクラエスを睨みつけたまま愛菜の頭を撫で続けた。
「閣下、そろそろ村に着きますが」
「入り口で彼らと降りる。具合の悪い人間も一緒にいれば、あの強情な男も少しは融通を利かすだろう」
「はっ」
御者台の男とのやりとりを睨みをきかせて聞いていたクラエスはずっと愛菜の事が気がかりだった。エステルが気にしていた事もあるが、この男の愛菜を利用する口振りがどうも気になっていた。
治安状況を確認しに巡回する衛兵だって珍しいものじゃない。クラエスだって今まで何度も見たことがあるし、なんの問題もなく数日で拠点のある街へと帰っていく。年に数回来る役人だって時には少ない税収率に嫌味も言うが、彼らも彼らの仕事をして帰っていくだけだ。
村の長はお世辞にも人付き合いが得意とはいえないし、むしろ気むずかしい人なのだが、それでも仕事であれば問題なく国の人間とやり取りはしていたはずだが。
「今更だが、君には色々協力してもらうよ」
「たぶん、あんたの期待していることは俺じゃうまくいかないと思うぜ」
そう冷たく言い顔を逸らした。
「村長とはあんま仲良くねーから」
外の様子と馬車が大きく揺れた事から停止した事がわかった。村の入り口に立つ見知った中年男性を車内からじっと見つめてクラエスは一人言のようにぼやく。
愛菜を負ぶって馬車から折り時も、彼からの視線が痛く感じたクラエスだったが、幼なじみのエステルの声が近づいて来た時は救われた気がした。
「家で休めるところを用意してるから急いでクラエス!」
「あ、ああ……」
案内すると自分の家に向かって走り出したエステルの背中と、背後の男の顔を交互に見る。男はにやにやと変わらぬ顔のまま早く愛菜を運ぶよう手を軽く払う仕草を見せた。
自分たちを村に入る為に利用するといった口ぶりの割にはやけにあったりとしていて違和感を覚える。だが、もたもたしていたせいでエステルに怒鳴られた為に慌てて彼女の家に向かって走った。家に入ると二階へ一直線に向かい、エステルの部屋の寝台へと愛菜を寝かせ早々にクラエスは部屋から追い出される。
エステルは愛菜に少しずつ水を飲ませた後、事前に用意していた濡れた布で顔や体を拭き、ほっとした笑顔を見せる。
寝息が落ち着いたことを確認し、静かに部屋から出た。
「必要なものあったら持ってくるぞ」
「うん、ありがとう。それより……」
階段を降りながらエステルが不思議そうにクラエスの顔を除いてくる。
「一緒にいた人達はどちら様?」
「……いや、途中状況察して馬車に乗せてくれただけだ」
「じゃぁ、お礼を言いに行かなきゃ」
いや、やめた方がいい。と止めるクラエスの言葉に、エステルが少し怒った様子で首を更に傾げた。助けてもらっておいてその態度はよくないと咎められクラエスは返す言葉もない。
家から出てすぐ、村の入り口方向からなにやら黄色い声が上がり、二人は不思議そうに顔を見合わせる。村の色々な方向から人が集まりだし、特に女達は興奮状態で走って行く。
「ねぇ聞いた!?王様の花嫁候補を探しに国の偉い人が来てるんだって」
「じゃぁ私たち王様と結婚できるかもしれないの!?」
「すごーい!!早く見に行こう」
その会話を聞いてもう一度エステルとクラエスは顔を見合わせる。二人とも複雑そうな顔をした後、クラエスが「だから言っただろ、やめた方がいいって」と呟いた。
エステルは否定も肯定も出来ず、自分の父親がいる騒ぎの真っ只中へ向かう事となった。おそらくこの事態に困惑しているはずだ。
「お父さん、また何か騒ぎ起こさなきゃいいんだけど……」
「おじさん、本当に外の人間嫌いだよな」
二人の予想は的中し、村の入り口付近で出来た人集りから黄色い声が消え、代わりに男の罵声が聞こえてくるようになった。
近くまでは来たものの、割っては入れる空気でも無く、エステルは俯きながら人混みに紛れてそれが終わるのを待つことにしたようだ。
やれやれとクラエスは揉め事の最中である彼女の父と、対立している国王の使いご一行の近くまで人混みを掻き分けて距離を詰めた。
「村の娘を寄越せ?この村を潰す気か?貴殿の主は気でも狂っているのか?」
「大変無礼なお願いであり、カミル殿には多大なご迷惑をお掛けすることも重々承知しております」
あのにやにやとらえどころ無い言動をしていた赤い軍服の男が地に膝を付け、深々と頭を下げる光景を見てクラエスは思わず身を引く。
「どうかこの国の存続の為、貴殿にはお力を貸して頂きたい」
静かに頭を下げて返答を待ち続ける男を無の表情で見下ろす村長のカミル。表情を一切崩すこと無く静かに持っていた農具を天へ振りかざした。殺気を感じ、軍服の男を守るようにセットが前に出て剣を構える。だが、彼の目に映ったのはカミルでは無く若い娘の背中だった。
「やめてお父さん!この人達は私のお友達を助けてくれた人だよ!!」
両手を広げて止めに入った娘の言葉にも黙ったままだ。だが静かに振りかざした農具を下げ、その場を去る。
村人も避けるように道を開け、恐る恐る彼の背を見つめた後、疲れたようなため息を付きながら散らばっていく。黄色い声を上げていた少女達もあきらめの言葉を漏らしそれぞれの家に帰っていく。
「あの、すみません。父がご迷惑を」
「いや、仕事だし気にしてねーよ」
ぺこぺこと必死で頭を下げるエステルとは対照的に、セットは剣をさやに戻しながら軽い口調で答える。その様子を見た赤い軍服の男が血相変えて駆け寄り彼の頭を小突く。
「ってぇなぁ!何すんだよ」
「このお嬢さんへ口の利き方は気をつけたまえ」
「?」
その言葉が何を意味しているのか理解できず首を傾げるエステルの手をがっしりと握り、またあのねっとりとした笑みを見せる。何故手を握られているのか戸惑う様子は見せるが、拒否反応を見せるわけでも無く、エステルはただただ困った様子で男の顔を見返えしている。
「先ほどはありがとうございます」
「こちらこそ父が大変失礼な事を言ってごめんなさい」
「私、国王陛下の使いで参りましたエクセル=エルメルトと申します。以後お見知りおきを……エステル=カミル嬢」
今初めて出会ったはずなのに自分の名前を呼ばれる。彼から異様なものを感じ取ったエステルは直ぐにその手を払いのけた。
怯えた表情のエステルを見つめ、エクセルは目尻と口端をニィッと歪ませたかと思うと急に「可憐だ」と呟いた。
叩かれた手で揉み手をしながら口から笑いが漏れ出す。悦に入るとはこの事だろうか。
この状況に我慢できなくなったセットが二人の間に割って入り、この男は病気だから気にするなと言って彼の存在をエステルの視界から消した。
「あの、エクセル様……父は何を言ってもお話は聞かないと思います。お引き取りください」
「断る」
真っ直ぐな視線と一緒に向けたエステルの言葉と、直ぐ様返ってきた連れ言葉にセットは軽く驚いた。
セットからその場を離れるように指示を出すエクセルの表情はニヤけたままだが、先ほどとは目の色が違う。彼女と同じように譲れないものを主張した目で、じっと彼女を見つめ返す。
「また明日、お会い致しましょうね」
「…………」
最後にエクセルが柔和な笑顔を見せた後、エステルの身体が一瞬大きく振れた。
急に時間が止まったような感覚と耳鳴りが襲ってきた。周囲の音は一切聞こえなくなり、耳鳴りと自分の鼓動だけが聞こえる時間が随分長く続いたように感じた。初めの恐怖から次第に全身の力が抜けていき、心地よいとまで感じるようになってきた頃にエクセルに呼ばれる。
「エステル嬢」
はいと答えなければ。エステルはそんな風に思え、口を開きかけていた。
だが、異変に気づいたクラエスが付近に置いてあって農具を持ちだしてエクセルに向かって振りかざし、彼をエステルから引き剥がした。
エクセルは無駄のない動きで農具をすれすれで躱し、術が切れて呆けた様子のエステルに笑ってみせる。それ以上は何か言うこともなく、連れの男達をつれて村の奥へ消えていった。
「おい、無事か」
「…………夕食の買い出しに行かなきゃ」
黙ったまま動かずエクセルが立っていた場所を見つめ続けるエステルに恐る恐る声をかける。だがクラエスの言葉には返事をせず、まるで逃げるかのようにエステルはクラエスから離れていった。
何か気に障っただろうか。不安を口にしながら彼女の後ろを付いて行くしかできなかった。
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