六厩めれう
日々の暮らし。
月ごとの期ごとの年ごとの、自選短歌
歌評というには気が引けるけど
随筆なのか、掌編なのか
新聞の歌壇欄への投稿です
西瓜第14号を落掌いたしました。「ともに」欄(読者投稿欄)に投稿した『ないなった』5首が門脇篤史さんの選に入り、また、三田三郎さんには全体評の中で触れていただきました。こうやって存在に気づいていただいて感想をいただくことは、何らかの作品を作っている者にとっては本当に嬉しいことです。心から感謝いたします 今年の3月に、うたの日の100首席達成と時を同じくして仕事の内容が一変して忙しくなってしまい、二重の意味で短歌ひと休みしようかなの気分となってしまい、それがどのくらいまずかっ
この世で関わり合う人のうち潜在的に応援してくれるのは1割ほどで、2割の人からは反感を持たれる。残りの7割の人には何とも思われないのだそうだ。人気の歌手も俳優も、歌人だってきっと1割の人を大切にしているんだろう。無関心ならいざ知らず反感を持たれている人からの苦言は毒にしかならない。
「『西から登ったお日様が東へ沈む』というバカボンの歌があるので実際にはその逆」方式の覚え方をすることがある。最近だと「店内で食べて帰ったほうがゴミが少なくてコストが安そうだけど実際には店内飲食の方が高価」のような…身体感覚のいびつさを修正するために頭の中の配線を逆にしているのだ。
最近は小麦粉食を少し減らすようにはしている。パンは好きなので非常に辛いのだが、朝のパン食をやめたらずいぶん痩せたのでこれを維持したい気持ちがある。けれどずっとその調子ではもたないので、何か自分へのご褒美をあげたいときに(家族には黙って)デイリーヤマザキに行く。わたしの周囲ではデイヤマって略すのだけど、他ではあまり通じないようだ デイヤマの何がいいかというとパンの種類が豊富なことと、それに儲けようという気がないところだ(わたしの主観による)。大手コンビニにみられるような、洗練
腕を磨く、という言葉はあって、これは職人を生業とする人が自分の技量に磨きをかけるようなことだと思う。だから趣味の世界にはもしかすると適さない言葉かも知れない。好きを突き詰めていった果ての上達はするものじゃなくて「してしまうもの」ではないか。写真は今日撮ってきたバンクシーらしきもの
鼓門を見るのは初めてなので、前回金沢に来てから20年ほど経っていることになる。金沢都市圏百万人の盟主にふさわしい堂々とした駅。比べていつも思うのは名古屋駅のインフラの見劣りすること。旧駅舎に覆いをつけたような構造だからね。まずは在来線上りホームに下りエスカレーターをつけてほしい。
インドカレー屋さんへ行くと「ありじゃとやしたー」みたいな日本語が多いのに「ありがとうございました」としっかりした日本語の抑揚で言ってくれたインド人(でも大抵ネパール人なんだけど)がいた。自分が外国語を話す立場なら上手くなるまで話せないな。今いる町、たくましい外国人がたくさんいる。
マインドフルネス、まだまだ人気のようだ。一つの所作を丁寧にやるのがいいらしい。最近では、ペットボトルの水だって自分しかいなくてもなるべくコップに注いで飲むようにしている。つまり私は私を粗末にしない、と自分に言い聞かせる。私をもてなすことで私が期待に応えてくれる、だといいのだけれど
他人を断罪することは普通に考えて疲れることだと思うけど、生き生きとしてそれができるタイプの人を稀に見ることがある。白黒はっきりつける人は短期的にはリーダーシップを買われもするが、長期的に見ると煙たい人でもある。人にはそれぞれ汲むべき事情があると思えばそんなに他人に辛くも当たれない
「最近の若者は言われたことしかやらない」「言われたことができれば十分なのでは?」そんな議論が聞こえる。俳優は長く撮影するほどいい演技になるかというとそうではないだろう。限りある時間の中で見る人を惹きつける演技をみせるのがいい役者。時間はいつでも誰にでも均質に流れるというのは嘘だ。
落ち葉だと気づいてしまうまでそれは誰かのための折り鶴だった/六厩めれう さっきまで勇者の剣を演じてた枝が転がる春の川べり 天国の内覧会にゆくように眠る時間のながくなる猫 使い捨てレンズと呼べばはじめから捨てるつもりで購うひかり (了)
あるところで聞いた話。小児病棟の七夕飾りに「大きくなってお父さんみたいにカバン持ってカイシャに行ってみたい」と書かれていたと。私が当たり前で退屈と思う生活をある人は羨ましいという。「足るを知る」と言うと向上心を否定するようだけど私は今の立場に感謝することと向上心は両立すると思う。
祖父はストローを使わない人であった。ストローなんか使ったら味がわからないといつも言っていた。すぐにお腹を壊す私に、冷たい飲み物は口の中でひと呼吸おいてから飲みなさいと言っていた。その祖父の最晩年は舌癌とその後遺症との闘いだった。冷たい飲み物が恋しくなるこの時期になるとふと思い出す
出張初日、タクシーで行き先を告げると「住所で言ってもらえます?」。運転手はそれをカーナビに。二日目同じようにタクシーに乗るとやはり「住所で言って」そしてカーナビ。他の土地では逆に「住所で言われてもな…」って言われる方が多い。二日連続だったから県民性なのかもしれない。慎重な県民性。
今日はピザが食べたい気分。初めて来た町なのでGoogle先生に訊いてみた。近くにあるにはあるけど評価低…でも大当たりではないけど平均以上だった。「期待するようなもてなしは受けられないぞ」という気持ちで行ったのが良かったのか。スタ◯みたいなホスピタリティカフェ?に慣れすぎなのかも。
Twitter「うたの日の薔薇短歌」botに流れてくる自分の歌、どなたがいいねしてくださったかわからなくなったのは残念。Twitterとしては広告最適化のために躊躇いなくいいねを押してもらえる環境作りが優先されるのだろう。他人のツイートのいいね欄は私にとってはお宝だったのだけど。