『恐怖』と『美』はあまりに似過ぎている
最後に心の底から晴れやかな気分になったのはいつ頃だろう。
小学校高学年ぐらいの頃から、私の心にはいつも影が差している。
坂口恭平さん曰く、今の感情と似ている過去の記憶を思い出しているだけなのかもしれないが。
でも私は自分の心を騙して来ていただけで、数年前から躁鬱人だったと思う。
それこそ、周りの目を気にしていたのだと思う。みんなそんな時期はあるし、気の持ちようだと。
しかしその自分の気持ちを騙している人のほうが多い世の中は、やっぱりおかしいと思う。
私はなんとか生きてこれていると思っていた。でもそうじゃなかった。
無意識に無理をしてしまう私は無意識に疲れてしまう。
それを意識したとき、とてつもない大きさの憂鬱な気分がやってくる。
ちょっといいことが思いつくと、一気にやる気が起きて、アイデアが駆け巡る。まさしく躁。実行しようとする頃には鬱。そんな自分に疲れてしまう。
私と話すと疲れる人は多いと思う。自分ですら自分と居ることに疲れている。
そんな自分を調整するために、今もなんとか書いているけど、もはや何を書いているのか、何を書いていいのかわからない状態。
とにかく今の、憂鬱な気分を書いている。とにかく書くこと。出す。
脳内のものを出さなければ私が死んでしまう。
しっかり出すことを思い出して、慣れておかないと危険な状況になると自分で分かっている。
書いたり描いてたりしているうちに、鬱な感情はなくなっていくことも分かってる。
下手で面白くない文章でもいいから、自由に出す。生きるために出す。
昨日、夜の海が無性に観たくなり、電車で1時間以上かけて一人で海に向かった。
なぜか、絶対に観に行かなければならないようなそんな気もしていた。
海辺の駅に着き、海に向かって歩いていると潮の香りが漂ってくる。
その香りだけで、自分の心が喜んでいるのがわかった。潤った。
海のすぐそばにあるの駐車場の、少しだけ崖のようになっている
コンクリートに腰かけて下をのぞくと、夜の海の波の迫力に足どころか全身がすくんだ。
その恐ろしさと美しさに思わず心も体も飲み込まれそうになった。
前々から感じていたけれど、『恐怖』と『美』の感覚はあまりに似過ぎている。
この二つの感覚の境界線は、はっきりと曖昧だった。
あまりにも壮大で美しく、いっそこのまま飛び込んで、そのまま海の一部になってしまいたいと思った。
その時の感情は「死にたい」とかの意味ではなく、ただただ心から、「この美しい海になりたい」と思った。
いや、少し「死」を意識した感情も入っていたかもしれない。
夜の海と一対一で対話できる状況で、自分の感情上の『恐怖』と『美』さえも曖昧になっていた。
私は他人とだけではなく、自然との境界線も曖昧な人間なのだろうか。
そんな危うい感情のまま夜の海と月と星を同時に眺めていると、自分の中で何かが始まったような気持ちになった。
そういえば、夜の海はこれまで何度も観てきたはずなのに、この日、生まれて初めて観たような感覚だった。
もしかすると、夜の海を一人きりで、心で観たのは初めてだったのかもしれない。
この日の感覚・感情全てが、私の自由家人生の始まりの合図のように思えた。
帰り道、私は海のように圧倒的に恐ろしくて美しく、多様な個性を受け入れることができる、愛に溢れた人間になろうと、改めて思った。
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