タバコと口紅(第三話)
第三話
喫茶店のテレビからは、いつものように悲惨なニュースが流れている。
「昨夜、⚪︎⚪︎区の住宅街で夫婦が殺害される事件が起きました。刃物で刺された形跡があることから、警察は殺人事件とみて捜査中で、犯人はまだ逃走中とのことです…」
考えてはいけないことを考えてしまう自分がいた。
男が喫煙から戻ってくる。
「まさかね…」
思わず私は口に出してしまった。男もテレビを見ている。たけど男の表情に変化はない。
「この事件の犯人、どんな人だと思う?家族かな…、親戚、はたまた赤の他人…」
意地悪な自分が顔を出した。
「さあ」
素っ気ない返事。
「そういうのは、興味ないんだ。私は興味あるな…。人を殺す時ってさ、どんなこと考えているんだろうね。逆に何も考えてないのかな…」
男は何も言わず、アイスコーヒーを啜る。
勝手にヒートアップしていた自分がちょっとウザい。
男の振る舞いは正しかったのかもしれない。
他人のことに興味を持つことは、無駄なことなのかもしれない。そうだ、自分でも気付いていたはずではないか。私が得意の自問自答に陥っている中、男が発した言葉にとどめを刺された。
「君は、自分がどんな人間なのか、分かっていない振りをしている。本当はこの世界で必死に自分自身を見出そうとしている。きっと…」
私は反射的に席を立って、アイスコーヒーを一口だけ飲んで店を出た。
何だか身に覚えのある感覚がそこにはあった。
「空はこんなにも晴れているのに」
振り返ればあの男がいるのではないかと、そんなことを考えてしまう自分がいる。男の言う通り、私は自分自身を分かっていない振りをしているのかもしれない。むしろ振りをして生きていくことしかできないのだ。この複雑な世界で生きていくにはそれが最善だと知っているから。
私はカバンから口紅を取り出して塗り直した。
私は降りた駅へと向かった。
一刻も早く家に帰って、この気持ちを落ち着かせたかった。ただ、この駅には電車が30分に一本しか来ない。なんてところに来てしまったのだろうか…。こんな日は、何をやってもうまくいかないものだ。
電車を待っていると、高校生らしき男の子がやって来た。
こんなところに学校なんてあるのだろうか?そんな疑問を抱きながら、その男の子と二人、電車を待っていた。
電車が来るまで、あと20分。普通の高校生なら、スマホ片手に友人と連絡を取り合ったり、ゲームをしたりするものだ。でも、彼は何かが抜け落ちてしまったような…そう、まさに私が理想としていた感情のない世界で生きているかのようだった。
女はアイスコーヒーをほとんど飲まずに店を出て行った。
俺も支払いを済ませて喫茶店を後にした。
「空はこんなにも晴れてんのに」
来た道を通って、ゆっくりと駅へ向かった。
「そろそろ、気付く頃かもしれない」
目を覚ますと自宅の最寄り駅に戻って来ていた。
記憶がないほど、ぐっすり眠ってしまっていたらしい。あの数時間前の男との出来事も夢に変わりつつあった。
「一体、あの男は何だったんだ」
夢現に浸っていると、パトカーの音が私を現実へと引き戻した。
そして今日もまた、事件が起きた。
帰宅して早速テレビをつける。夕方のニュースはこの事件のことで持ち切りだった。どうやら、一人の男が人質を取って立てこもっているらしい。
「警察が今、男が立てこもっているマンションに突入しようとしています」
アナウンサーは必至の表情だ。テレビ画面のテロップに目をやると、その事件現場は案外家の近くだった。
いつもなら、ふーんと他人のふりをして関わりを避けるのに、この時は違った。
私は家を飛び出した。ここ数時間の違和感が夢だったのか現実だったのか確かめたかったのだ。
何か事件が起きる度、いつも思考してしまうことがある。
なぜ捕まることが分かっていて、罪を犯してしまうのかと。時効まで逃げ切る…そんな望みを願う資格は彼らにはないはずなのに。
それとも、罪を犯す瞬間、彼らはこの世で一番愚かで寂しくて可哀そうな人間になっていて、何をしても許されると思っているのだろうか…。
結局、真実は当事者にしか分からない。でも、自分が愚かで寂しくて可哀そうな人間かどうかを考える余裕があれば、ちょっと立ち止まって、これから自らが行う行動を躊躇するのではないか?でも、引き金は一瞬で…。
『でも』に『でも』を重ねて、結局表に戻る私の思考ループ、本当にどうにかしてほしい。
現場の近くに着いた。
「あれ…」
何かが違う。私は辺りを見渡す。
すぐそこで事件が起きているのは確かだ。でも何度も見渡しても人集りなど一つもない。ただそばを人が通りすぎるだけ。警官の数もさっきテレビで観ていた光景とは明らかに違う。そこに緊迫した様子は一切ない。
犯人と思われる男が出錠を掛けられ、パトカーに乗り込もうとしている。事件はあっさりと幕を下ろした。
休日なのに、なんだか今日は疲れた。
家に戻る途中、少し回り道をして帰ることにした。夕暮れの少し肌寒い風が心地いい。夕方から夕飯までの間の公園は、私を自由にしてくれる。ベンチに座って一息つく。
子供たちが笑顔で友達と別れを告げ…
「え、やっぱり何か変」
そこにいる子供達は、まるで遊んで時間になったら家に帰ることをプログラミングされたロボットのようだ。
急に背筋が凍りつく。
「これが、君が望んだ世界だろ?」
背後から聞き覚えのある声がした。
「感情のない世界、君が望んだ世界じゃないのか?」
「えっ」
私はまだ夢を見ているのだろうか。
「夢が叶ったんだ」
男の口調はあの時と変わらず落ち着いている。
「どうゆうこと?」
「変わったんだ、君が望んだ感情のない世界に」
男は隣に腰を掛けた。
「意味わかんない!」
私はその場から駆け出した。
公園が見えなくなったところで、立ち止まって呼吸を整える。そして目を閉じる。
言葉とは裏腹に、私は自分の身の回りに起こっている異変に気付き始めた。
駅で見かけた空っぽの高校生、緊迫感のない事件現場、ロボットのような子供たち…。
確かに私の望んだ世界。人間から感情がなくなれば、世の中は平和で生きやすくなるに違いない。カラフルな景色がずっと続くとそう思っていた。
でも、この望みがただのエゴだったことにこんなに早く気づかされるとは思ってもみなかった。
もしかすると、この世の中に色をつけていたのは、人間の『感情』だったのかもしれない。
「これが本当に私が望んだ世界だったのか…」
(第四話に続く)
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