タバコと口紅(第一話)
あらすじ
生きやすい世の中ってどんな世界だろうか。
嬉しい、悔しい、悲しい、楽しい…。この世は感情で溢れている。
もし感情というものがこの世界からなくなれば、人は生きやすくなるのだろうか?
感情の海に溺れ、本当の自分を見失った女は、いつしか感情のない世界で生きたいと願うようになる。そして、ある男との出会いをきっかけに世界は一変するが…。
唯一、心を通わせ、感情を共有し合うことのできる女と男。無機質な世界での出来事を通じて、“この世のあるべき姿“を探しを始める。
第一話
今日も平凡な日常が始まる。
生きている意味など考えず、そこら中に転がる空気を吸って、息をする。
それが日常であり、それが生きるということだ。
ただ生きてさえいればいい…生きているだけで…なんて言葉、私にとっては苦痛でしかない。
生きていれば何かしらの感情が生まれ、人と関わればそれが複雑に絡み合い、面倒くさいものを作り上げる。他人と関わらなくたってそうだ。もしあれをこうしたら、こーなって、あーなって…無限の思考ループが自分自身を苦しめる。結局、平凡なんて日常はこの世に存在するのだろうか。
いくら平凡でシンプルに生きていたとしても、この世は個の集合体だ。
嫌でも何かと関わりを持って生きていかなければならない。
だけど、思考から生まれた感情を携えた一つの魂が肉体という一つの箱に宿った人間という生き物は、結局最後は一人で死ぬのだ。
だからこそ、人間は人間として生きている間、必死で自分自身を愛でる。その形がたとえ他人を傷つけることであっても、自分を甘やかすことであっても、自らを殺めることであっても。
そんな突発的で自らも理解できないような、ありえない行動をとってしまうのは、この広く無限に広がる世界で、必至に自分という存在を見出そうとしている証拠だ。私も、あなたも。
“寂しい”という感情をプログラミングされた人間は、無意識に他人に愛情と共感を求め、彷徨い続けるんだ…。
「あー、面倒くさい。もう寝よ」
目覚ましを止めた。ベッド横のリモコンを手探りして、テレビをつけて起き上がる。
「雨か…」
何でもない言葉をつぶやく。
テレビから流れる天気予報を横目に朝食の準備と着替え。この世で一番自分が可愛いと思っているに違いない、全力で『可愛い』を振りまくお天気お姉さんに少しイラッとする。
嫉妬なのか。いや、これを見ることで誰かが元気に過ごせているんだろう…と起きても思考のひとりごと。こんなどうでも良いことを気にする自分に気付くと、それがどうでも良いことではないことに気付く。私は本当に面倒くさい人間だ。
「続いては、東京都⚪︎⚪︎区の女児虐待事件です。母親の…」と神妙な面持ちでアナウンサーはニュースを読み上げる。
この手のニュースは最近では日常茶飯事だ。愛おしいはずの我が子をなぜ殺めるのか。
メディアではこれを疑問視して当事者の行動や心情を推察し、対策を講じる。メディアはメディアの仕事を全うしている。立派に思えてくる。
ただ、現状このような問題はあとを絶たない。なぜなら、その『なぜ』を理解できるのは当事者だけで、他人の心情を100%理解しようなど、到底無理なのだから。
「仕事行こ」
洗面台の鏡に写る自分に口紅を塗る。私はこうして“会社員スイッチ“を入れる。
最寄り駅から職場まで、いつもの経路で出勤する。
今日みたいな天候の日は、特に電車内が窮屈だ。でも私は嫌いではない。
満員電車は感情が渦巻く泉。天候という人間の手ではどうにもできない物に限って、人間は苛立ちを隠せない。
まるで一つのミュージカルを観ているようで、個性という鮮やかなカラフルの中に、溝のようなどす黒さが混ざり合う。時に私はこの渦巻く泉に溺れてしまいそうになる。不思議なことに、深―く深―く沈んでいくと、他人を客観視していたはずの自分さえも客観視し始めるのだ。
「私は何のために、いつまでこの道を歩きつづけるのだろう」
と自問自答する。
そんなこと聞かれても、知らねぇよって話で、自分でもわからないことを問いかけてどうする。自問自答の繰り返す面倒くさい自分が笑えてくる。ただ、こうやって吐き出すことで締め付けられていた何かが緩んで、黒から暖色に染まっていく。
100%とは言わない、1%でも自分を理解してくれる人がいると知るだけで安堵する。たとえそれが自分自身であっても。
職場では完璧に仕事をこなす、できる人と思われたい。
完璧?できる人?そんな定義化されていない物をいつから欲するようになったのか。世間一般、当たり前のことだから?それを持っていない人間は生きていけないのか…?そんな調子で思考ループが、また始まった。
「でも、結局この世は個。自分が良ければそれが正解」
そうやって、自分に言い聞かせて一旦幕を下ろす。単純作業に集中できる時間は、平和な幕間だ。
一日の業務を終えて帰路につく。
外は相変わらずの大雨だというのに若い女性部下を連れて夜の町に消えていくおじさん。この時代にまだこんな光景があるのかと目を疑いつつ、“時代“という最も定義化しづらい物に私はまた溺れそうになる。
彼らが何を考え、何のために生きているのか、私の知ったこっちゃない。ただ、そこには確実に私の知らない世界がある。彼らが私のことを知らないのと一緒。やっぱり人は、自分が大好きなのだ。
まぁ、こんなにも面倒くさいことを考えてしまう私は一番面倒くさい人間かもしれないけど。もう今日で何度目になるだろうか思考のおしゃべり。
「いい加減にしろ、私」
人間に感情がなければ、世の中はどれだけ楽になるだろう…。
人間を支配しているのは感情で、感情というものはいつ、どこで、どうやって人間に芽生えたのか。
必死に見えない答えに手を伸ばす自分の姿が、恥ずかしいくらい鮮明に見える。自分の感情が自分自身を締め付ける。この世の中を否定する権利など私にはない。
ただただ、苦しいんだ。邪魔なんだ。空っぽにしたいんだ。
いつもと変わらぬ空気に包まれ、いつもと変わらぬ街頭の明かりに照らされながら、私の足は家路を辿る。雨の日の電車内が好きとか嫌いとか、そんな議論もどうでもよくなってくる。次第に雨音さえも遠くなる。
電車の扉に反射して映るのは、口紅が落ち切った自分の姿だけ。
「ここは…」
今まで感じたことのない異様な空気が私を包み込んでいた。
今なら何でもできてしまいそうな、そんな力さえ感じた。
(第二話に続く)
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