タバコと口紅(第四話)
第四話
世界は一変した。
無機質で冷たくて、全てが自動化された世界。言い換えれば、便利でシンプルな世界だ。人間は全ての物事を淡々とこなし、生産性が高く、この上ない世界。
もちろんそこには、“感情“を持った人間はいない。あの男を除いては。
今日も起床して、いつものようにテレビをつけて身支度を始める。
「天気は…」
お天気お姉さんは今日も笑顔だ。笑顔は笑顔だけど、やっぱり何かが違う。
その振る舞いにいつもイラっとしていた私の姿はもうそこにはいない。
前も今も同じように原稿を読んでいるのに。伝えたいことは言葉にしないと伝わらない…だけど、言葉にしても伝えきれない何かがある。
「つまんないな」
会社に向かう通勤電車。
気持ち悪いくらい澱みない透き通った舞台は、平和を通り越して平凡でもなく無だ。キャストも見た目以外に見分ける術がない。要は、誰もがどの役でも演じることができるってわけだ。
「やっぱり、つまんないな」
電車に乗り込んだ瞬間、スマホを見る。そんな習慣化した行動が本当にただの習慣に見えれてくる。
でもこれで良かったのかもしれない。AIやらChat何とかやらが登場したりして情報で溢れかえったこの時代、一つ一つの情報に一致一憂していては体が持たない。もちろん心も。
そんなことを思いながら、感情を失ったこの世界を肯定しようとしている自分がいた。
ランチの時間、いつも自慢話と蘊蓄のオンパレードでマウントを取ってくる同僚。
いつも悲壮感いっぱいで悲劇のヒロインを演じているキラキラ部下。
自分が一番正しいと言わんばかりに昔の武勇伝を何度も擦ってくる上司。
それを真っ向から受け止めて、時に受け流して、時に反発する。そんな時もあったな…と、今は懐かしむしかない。
帰宅途中、無意識にあの公園へ向かっていた。最後にあの男と会った場所。
感情というものが消え去ったこの世界で、不覚にも期待してしまった。お酒に強くないのにコンビニでビールなんか買ったりして、いつもと違う行動を取っている自分が笑えてくる。
「会ったとしても、どうするつもり?何を話すの?」
ベンチに腰をかけて、ふーっと深呼吸した。
ふと見上げた夜空に浮かぶ月は、こんな世界でも美しく輝いていた。
「このまま目を閉じて、目覚めれば元の世界に戻っていたりして…」
なんて考えが過ぎる自分が自分でも理解できない。久しぶりのアルコールにも溺れてしまったようだ。
「行ったり来たり、何考えてんだ私は…」
目が覚めると、見たことのない天井。
ソファーに仰向けになっている私。
タバコの煙が幻想的な雰囲気を演出して、まだ夢の中なのではないかと勘違いさせる。
「ここは…」
「あ、起きた?俺の家、っていうか部屋」
男はベランダでタバコをふかす。
「何で?」
「缶ビール一本であんなに泥酔するやつ、初めて見た」
「ああ、そう…」
名前も知らない男と二人で部屋にいるなんて、普通なら逃げ出すべきなのかも知れない。
でも、自分でも何だか分からないけれど、ここに居ることを許されている感覚がある。それは、男女が二人きりで同じ部屋にいるにも関わらず、何も起きない、これから起きる気配もないことを感じていたから。
その後も、男はなぜ私が公園にいたのか、何をしていたのか、何も聞かずにタバコの続きを楽しんでいる。
ふと男と初めて会った時のことを思い出す。あの時もそうだった。
言葉を交わさずとも全てを理解しているような、悟っているような、不思議と恐怖とその中で見え隠れする優しさ。感じるがゆえに言葉が少ないのか、相手を思っての配慮なのか、そうやって私はいつものように思考のループにハマっている。
もしかすると、これは男の想いを感情を理解したいということの現れなのかも知れない。
部屋を見渡す余裕すら出てきた。
物は最小限で、シンプル。最近引っ越してきたとしてもダンボールも何もない。だた、一つだけ違和感があった。
キッチンの流し場に飾られた一枚の写真。
見たくて、知りたくて、無意識のうちに写真に近づく。そこには、母親と思われる女性と男の子が二人。
「これ…あ、ごめん、勝手に」
「別にいいけど」
男はそう答えただけで、その後は何も言わなかった。
ここに写っている人が誰なのかを聞きたい自分と、プライベートなことだし自分には関係ないことだし…と、これ以上踏み込むのは面倒くさいと思う自分がいる。
結局、この時は特に深掘りはしなかった。
「帰ろうかな。何かすみませんでした。色々と」
鞄を拾って、とりあえず一礼。
男の部屋を出てドアを閉めた瞬間、涙が溢れた。
私は感情という面倒くさいものを携えた人間が嫌いだ。他人と関わることでそれがもっと複雑に縺れ合うのはもっと嫌いだ。感情のない世界を望んで、それが叶った。
なのに、誰かと心を交わしたい、感情を確かめ合いたいという思いがあることに気づいた自分が惨めで情けない…。
ドアノブを握り、再び男の部屋に入る。
男もまた部屋の中には戻らず、玄関に立ったままだった。
お互いの目が合う。数秒間の沈黙。
男は目線を外さないままタバコを吸殻に置く。私たちは言葉を交わすことなく、距離を縮めた。
「ビール苦っ」
「タバコ苦い」
(第五話に続く)
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