タバコと口紅(第五話)
第五話
出所当日、俺を迎えにくる人なんて誰一人いない。
心を無にしてやり過ごした服役。これからこうやって生きていく、なんて決心は微塵もない。もちろん家に戻る資格もない。
こんな感情とは裏腹に燦々と輝く太陽。苛立ちに割く気力もない。
行く当てはないが、とりあえず電車に乗り込む。
周りの反応は様々だ。怪しい目線を送るおばさん、気づいていない振りをする男性、スマホに集中して気づきもしない女子。
そして、車内にいる人を一人ひとり見渡す女。その女と目が合う。
「俺は君にどう写っている?」
心の中で問いかけた。
深夜1時のベッドの上。
こんな状況でも一定の距離を保ちながら、私たちは会話を続ける。
「出所?」
とりあえず問いかける。
出ていくなら今だと、男は声には出さなかったが私には聞こえた。
この男が何かしら罪を犯した人なんだという事実を知った今でも、ここから逃げようという選択肢は私にはなかった。
「人の心が、感情が見えなくなった今でも、結局私の中の思考のループは止まらなくて。全然生きやすくなんかない。それに、今こうやってあなたといる。笑っちゃうでしょ?」
「何か溜まってんなら、吐き出せば?その感情とか思考とか」
そうだ、私はいつも周囲を見渡して、他人の感情を勝手に妄想して勝手に苦しんでいる。そんな人間だとわかっていても自分で自分を認められない。
この男は私と初めて会った時、あの喫茶店で会話した時から、私の心を見透かしていた。
「で、俺が何で刑務所にいたか、何の罪を犯したのか、それは気にならない?」
「うん…。電車で見かけた時は、何か悪いことをしでかした人って感じだったから、気になってた。でも今は…、あなたがは唯一感情を分け合える人で…」
この状況でも男を信用したいと思う自分と、信用して良いのか分からない自分がいた。心の中を対等に見れないのが悔しい。
すると、男は頭を私の方に向けて、私に視線を合わせた。
「弟を刺したんだ。それで服役してた」
また天井に目線を戻す。
「急所は外した。その後病院に運ばれて、多分今は普通に暮らしていると思う」
「なん…」
理由を聞こうとしたけど、止めた。
こうして同じ空間にいる、ただそれだけで良かった。
「小さい頃から弟は優秀なやつでさ、俺と違って。で、まあ分かるっしょ?大体」
「羨ましい、あ、そういう意味じゃなくて、そうやって感情を口に出せること」
私がそう言うと、男は突然クスッと笑った。
「だから、こんな目に遭ってんだけどな」
男は私に背を向ける。その背中にはいくつもの傷跡。
服役中にできたのか、その前からあったのか、それは分からないけれど、自然と涙が溢れた。
辛い過去を知ったこと、それを打ち明けてくれたこと、可哀想だと思ってしまったこと、この人を信用しても良いと感じたこと、そして私をここに連れてきてくれたこと…。この一つ一つの感情を確かめるかのように、私は傷跡を一つ一つなぞって、抱きしめ、眠りについた。
薄いカーテンから差し込む光と煙が混ざり合う景色が何だか懐かしい。
男はベランダでタバコを吸っている。でも、昨晩とは違う感覚がした。
「眠れなかった?」
「いや」
私も起き上がって肩を並べる。
「タバコ、美味しい?」
「いや」
その単調な返答から、何かをずっと考えているように見えた。いろんな憶測を立てることはできたが、決めつけるのは良くない。私はただその場を去ることにした。
「仕事、行かなきゃ」
“また“の約束も、“ありがとう“の感謝も正しいのか分からない。ただ、名前も知らない男と一夜を過ごしたという事実だけ残しておこう。
帰り際、キッチンの写真を横目に靴を履く。これもまた昨晩とは違った感覚。
静止画の笑顔の裏にある声が胸に刺さる。
この写真の姿に戻ることを望んでいるのだろか?
男は何のためにこの写真を持っているのだろうか?
一晩の体験が、また私の感情を刺激する。
ベッド脇には女の口紅。
ただ置き忘れたのか、それとも何かのサインなのか、俺には分からない。
ただ、こんなに深い眠りについたのは記憶にないくらい久しぶりだった。
また会う約束もしていないのに口紅を捨てることはできず、写真の横に置いた。
「仕事、探さなきゃな」
急いで家に帰って出勤の支度。
シャワーの間も化粧の間も、脳裏にはタバコと背中と写真がループしている。
感情と思考の渦に飲み込まれるのが嫌で望んだこの世界。だけど、今は男のことを考えることでこの世界で生きる意味を見出そうとしている自分がいる。
感情を無くした人間との関わりはこんなにも味気ないものだったのかと、無くして気づくものがあることに気づく。
「あ、口紅がない」
罪を犯した人間に、そう簡単に仕事は見つからない。社会人経験もないんだから当然のことだ。こんな世間知らずの人間に落胆する資格もない。
帰り際、決して訪れてはならない場所、母親と弟と暮らしていた実家に向かった。
久しぶりの実家は、何一つ変わっていなかった。
変わっていないと言うことは、母親と弟は俺がいた頃を忘れてはいないと言う意味なのか、もしくは最初からいなかったことになっているのか…そんなこと俺には分からない。
でも普通に考えれら、俺は受け入れてもらえる存在ではない。弟に刃物を向けたのだから。
畑に目を向けると見覚えのある後ろ姿と聞き覚えのある声があった。
数年の月日が経った今でも、すぐに母親だと分かる自分が憎らしい。
俺が服役中一度も顔を見せることなく、出所日がいつとか、そんなこともどうでも良かったであろう母親に声をかける勇気…というか、そんな資格なんてないことはよく分かっていた。
もし声をかけてそっけない対応をされたとしても、この感情のない世界のせいにしてしまえば良いではないか。淡々と追い返されるだけだ。弟の姿は確認できなかったが、実家を後にした。
仕事から帰宅する途中、私は公園に立ち寄っていた。
昨日と同じ時間、同じビールを片手に何かを期待している自分がいた。
(第六話に続く)
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