どうも菅さんが総理になりそうだ、という空気がある。 もうあの爺さんでいいなら決定とすればよい。 誰がやっても同じ、だからだ。 出来レースの投票のために税金を遣うのは無駄である。 票を数えたければ自分たちで数えればいいだろう。 菅さんが「国民のために働く人を」と言った。 TV番組のコメンテーターが「仕事ができる人を要職に」と言っていた。 菅さんが言うような人は国会にいないでしょう。 仕事ができる人は既に一般社会で働いていて、主に納税というかたちで国に貢献している。 これに
インターネット社会の黎明期を過ぎたあたりから、しばしばテレビなどで取り沙汰されてきた話題である。 匿名の掲示板などが物議を醸すハシリ(古い?)たる存在だろう。 特にネットの投稿は「言い切り」「逃げ切り」が容易にできる。 自身の発言に対する反論が出てきたら画面を消せばよい。 都合が悪いと思った場合はすぐに逃げることが可能だ。 現実の会議では、自身の発言に責任を持って最後まで議論しなければならないが、SNSではそんな義務は無い。 人間は、誰かを攻撃したり蔑むことで、自分が相手
ここ数年の間に、様々な業務の機械化が社会全体で始まった。 少子化や働き方改革などが主な要因だろう。 余談だが、AIによって今の仕事が奪われる、とメディアが煽っているが、 これまでも技術の発展に伴い無くなったり新たに生まれたりしてきた。 どちらかというと変化の速度が問題であって、事象自体は歴史的に見ても何度か起きていることである。 さて、前置きが長くなったけれど、 今回は人間が働く必要がなくなった世界の話。 ほぼすべての産業をロボットがやるようになれば、働く必要がない。 つ
一般に、誰かと話す時、「言い方」というのは重要視される。 何かを伝えるとき、相手に聞き入れてもらいやすい表現を選ぶことが大切だ、という意味である。 素直に聞いてもらえる表現をしましょう、とも言える。 例えば、自分の仕事を代わりにやってくれた人から、 「君にはできないだろうからやっておいたよ。」と言われるのと 「君が忙しそうだからやっておいたよ。」と言われるのでは、同じ行為であっても相手に持つ印象は異なるだろう。 また、「言っていることは間違っていないけれど、言い方がちょっと
僕は仕事柄、ほぼ一日パソコンを使用する。 そのためかネット記事を見る機会がしばしばある。 色々なサイトがあるが、基本的にはトップに各記事の見出しを並べている。 僕が気になっているのは、表現のテンプレ化が進んだ結果、それが適切に使用されていないことが多いということだ。 例えば、「女優〇〇に下された評価」「〇〇に視聴者が驚愕」「絶対に〇〇できる方法」などが一例だ。 余談だが、見出しの語尾について思うのは、「~とは」という書き方から体言止めにトレンドが移った気がしている。 現代
世の中には「〇〇できる方法」や「〇〇術」などの記事や著書が多く存在する。 このようなタイトルを見るとついつい読んでしまう、という人も多いかもしれない。 それは何故だろう。 今の自分を変えたい、或いは成長したいという思いがあるけれど、具体的に何をしたらよいのか分からない人が多いのではないだろうか。 結論から言えば、曖昧なテーマになればなるほど、人によってそれぞれ合ったやり方がある。 安易に誰かのやり方を鵜呑みにするのは、思考が止まっているといえるだろう。何も考えずに思考術な
現代ではインターネットが生活の一部となって久しいと言える。 利用者の増加に従い、アプリ開発が進みネットコンテンツも爆発的に増加したように感じる。 恩恵の一つとしては、個人が動画像を他者と簡単に共有できるようになったことが挙げられる。 その結果、生まれたばかりの赤ん坊でさえインスタなどに登場するし、更に言えば、自撮り画像をアップした妊婦の胎児は、お腹の中にいる頃から「はじめてのインターネット」を経験することになる。 ネットの利用は何もスマホやPCによるものだけに限らない。
才能が無いから、という言葉は非常に便利である。 誰も傷つけないし、自分自身を無責任に許すことができる。 ストレス社会で闘う人々にとっては必需品とも言えるかもしれない。 では、才能とはなんだろうか。 ネット辞書で調べてみたところ、「物事を巧みになしうる生まれつきの能力。」と定義されていた。 つまり、先天的なものを指すようだから、それなら仕方ないと諦める理由にするにはもってこいである。 ここで一つ、誰かが何かを巧みに成し得た場合を考える。 それは当人の努力によってもたらされた
我々の祖先が地球上で生活を始めた頃、狩猟と採集による生活を営んでいたと言われている。 当然ながら大勢で行うほうが安定的した成果が得られる。それは誰か一人が獲物を逃がしたとしても、別の誰かが捕獲できる可能性があるからだ。 このような生活を送るためには他者と意思疎通するための道具が必要だ。 おそらくそのような経緯で言葉が発明されたのだろう。 世の中には様々な文化や文明、芸術、技術、思想などが存在するが、言葉が存在しなければおそらく生まれなかったものが大半だろう。 長くなったけ
最近テレビで知った言葉である。 マスクを着用していない人に対して、マスクの着用をするように注意する人を指すそうだ。 場合によっては暴言や強い言葉、あからさまに不快感を示す態度をとることもあるとのこと。 今回はそんな人の話。 結論から述べると、誰かにマスクの着用を促す場合、まずは自分が相手にマスクを買い与え、それを着用してもらうように頼むのが当然である。 他人に物の購入を強要することは常識的であるとは言えない。 そもそも、そのような行為を認める権利があるのだろうか。 人には
今回はよくある覚え間違い(おそらく)について。 テーマについて親切心をもって察するに、喧喧囂囂(けんけんごうごう)と侃々諤々(かんかんがくがく)が混ざっているのだと思う。 この世に喧喧諤々という熟語は存在しない。 個人的に遭遇率が高い誤用は「穿った」とか「煮詰まった」などがある。 「憮然」という言葉もそうだ。 どれも奇跡的な共通誤認識が世間に浸透した結果だと思う。 まさか「うがった」を「うたがった」と読んでいるのだろうか…… おそらく語感などに対する感覚の共通性によるもの
そんな台詞を誰かに言える人はきっと人の気持ちが分からないのだろう。 ドラマなどで耳にすることが多いが、「人の気持ち」ではなく「私の気持ち」と解釈するほうが正しい場面が多いように思う。 本当は、私の気持ちを分からないあなたは人でなし(古い?)! と言いたいのだろうと推測される。 結論から述べると、人の気持ちなんてものは誰にも分からない。 本人ですら分からない場合があるのだから、他人が分かるはずないのだ。 そもそも、気持ちの定義も曖昧だ。 僕たちができるのは、察して分かった
普段、人は「だいたい」のイメージで対象を認識している。 身近な例では夜景やイルミネーションなどがある。 山頂や少し離れた地点から見るとなんとなく綺麗に感じるが、一つ一つは単なる電球や蛍光灯である。 イルミネーションの展示物を近くで見てなんだか興ざめした人もいるのではないだろうか。 これは距離によって認識可能な情報の粒度が変化することによる。 距離は対象に対するイメージを担保する役割を担っている。 物理的な遠さだけでなく精神的な距離についても同じことが言える。 例えば対象が
将棋の勝ち負けについて。 普段、僕は将棋ウォーズというスマホのアプリで指している。 これがリリースされる前は、将棋倶楽部24というサイトを利用していた。 将棋倶楽部24と比べて、将棋ウォーズは対局のマッチングが自動で楽だからこちらに切り替えた。 当然ながら負けると悔しい。 これほど悔しいことは他に無いかもしれないと感じるほどだ。 なぜなら、将棋には運の要素が全くないからだ。 最後まで自分が指し手を選ぶのだから、誰のせいにもできない。 負けた後は自身の負けた対局を振り返り、
いわゆる特撮ヒーローなどの世界では、良い人と悪い人がはっきり分かれていてわかりやすい。 以前、ドラマを観ていた時に知人から登場人物について質問をされた。 「この人は悪い人?」 と聞かれたので、おそらく悪い人ではないよと答えると 「じゃあ良い人なんだ。」と納得していた。 このように二元論でしか物事を捉えられない人を、考え方が極端な人と呼んでいる。 ちなみに極端の反対は中庸とされている。 このような人はおそらく仕事や私生活でも色々と不便が生じるはずだ。 社会は綺麗に2で割り
政府による自粛要請の影響でタイトルのような人が増えていると思う。 思うと書いたのは、しばしばニュースで目にするようになったからだ。 オンラインでつながるというのは、 それぞれの自宅からインターネットを利用して、ゲームでアバターを使って友人たちと集まったり、 ビデオ通話をしながら酒を呑んだりと様々な形態をまとめた表現である。 つまり、日ごろ対面で行っているレベルのコミュニケーションをインターネットを利用して再現しようとしている、というものだ。 僕は、なぜこんなにもつながり