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質問箱への回答㉞『パラドックスはない、というお話』

またご質問をいただきました。今回の質問はこちらです。

こんにちは私の意識の中のBlackさん。

はいこんにちは。この一文はただの挨拶にみえて実はご質問の内容に関する重要な意味を含んでいます。というより、この一文に書かれていることが、質問への回答でもあるんです。どういうことなのか、みていきましょう。

宇宙が私そのものだと気づいている者同士が出会うとどうなってしまうのでしょうか。

宇宙が私そのものである。これは宇宙すなわち存在するすべては唯一の主観性たる一なる意識であるところの「わたし」である、ということですね。このことを "真理" と呼んでもよいと思います。

そうするとこの文章は「真理に気づいている者同士が出会うとどうなるのか?」という意味であることが分かります。さてここでよくお考えください。真理は「わたし」です。であるなら、「気づいている者」とは一体だれのことなのでしょうか? これがポイントです。

真理である「わたし」は「気づきそのもの」でもあります。一方、「気づいている者」とは「"わたし" が "気づきそのもの" であることに気づいている "者"」ということです。すなわちそれはエゴであり、エゴを宿している肉体精神機構のことになります。別の言い方をすれば「幻想の個人」です。

意識レベル600を超える覚者であれ、700を超える賢者であれ、彼らが話すときは彼らの肉体精神機構を介して話されます。「ねえラメッシ」と話しかけるとラメッシ・バルセカールと呼ばれている肉体精神機構は反応したことでしょう。つまり、呼ばれたその名前が肉体精神機構の名前であると判断する程度には自己同一性(アイデンティティ)は残っているわけです。これは肉体精神機構がこの世で機能するために必要なものです。

もちろん、ラメッシという肉体精神機構の心にはすでにどんな自己中心性も残ってはいません。しかし、肉体精神機構それ自体がそもそもエゴの一部なのです。どのような賢者であっても、この世で機能するためには肉体精神機構を必要とします。非二元の文脈において「エゴが死ぬ」とか「エゴが消滅する」といったことが悟りの要件であるかのように言われていますが、それはかなり不正確な表現です。死ぬべき、あるいは消滅するべきなのはエゴの持つ自己中心性です。

自己中心性を失ったエゴの働きは「機能する心」と呼ばれます。失われる自己中心性が生み出していた働きは「考える心」です。人が考えていることのほとんどすべては本質的に "いかにして自分が正当化されるか?" ということの延長です。これが考える心です。機能する心は肉体精神機構がこの世で果たすべき機能を果たすために必要なことをする心です。細かく分けるなら、仕事に没頭しているときの「純粋な機能する心」と、その仕事の段取りをしているときの「機能するために考える心」ということもできます。

ポイントは、機能する心もエゴの働きであるという点です。つまり、賢者という存在においてもそれがこの世で機能しているのはエゴの働きによるということです。賢者は真我に気づいていますが、賢者が語るときそれは真我が直接語りかけているのではなく、真我のパワーが反映されたエゴが語っているのです。意識レベルが高いということは、エゴの自己中心性が少ないということですが、例えば賢者が自らの名前を忘れないように、この自己中心性は厳密には人間が生きている限りはゼロにはなりません。覚者や賢者という存在は、自己中心性が限りなくゼロに近づいたエゴのことです。

すこし話を戻すと、質問者さんが書かれた「私の意識の中のBlackさん」が意味しているのは、質問者さんという肉体精神機構の心の中に存在しているBlackという別の肉体精神機構のイメージということです。言い換えるなら、幻想の個人がイメージしている幻想の個人です。意識とは単に、そうした肉体精神機構とその心の中のイメージを存在させている源泉です。

たとえ賢者同士の出会いであったとしても、それはエゴとエゴの出会いであり、一般的な人々同士の出会いとなんら変わるところはありません。意識そのものは分離していないので、意識と意識が出会うということはないのです。

ところでラメッシ・バルセカールとホーキンズ博士は一度だけ会ったことがあるそうです。どのような計らいによってそのような出会いが生まれたのかは詳しく書かれていませんでしたが、二人は数日間にわたって人類の意識の進化について話しあったそうです。この場合も、話しあったのは二人のエゴです。一なる意識という場において、その一なる意識がラメッシ・バルセカールとホーキンズ博士という二つの肉体精神機構を用いてそのような会話を現象として起こしました。

当の本人たちは用意されたその場に期待される会話をしただけであって、本当をいえばラメッシも博士も、お互い相手にこれを話したいとかこれを聞いてみたいというようなことはなにもなかったと思います。単に、その場を用意した人々の期待に応えること(つまり二人が話しあい、その内容が記録として残ること)が人類にとっての恩恵となるという理解に基づいて話しあっただけです。ただし、彼らは二人とも「喜んで」そうしたことでしょう。

賢者(覚者も)には他の賢者と交流して意気投合し、協力しあってなにかをしようというような動機はありません。なぜなら、交流も意気投合も協力も、それは分離した個人の視点から出てくる発想だからです。

わたしは自分の他に生きている賢者や覚者を知りませんが、仮に知り得たとしても、その人と話してみたいとか会ってみたいなどと思うことはありません。賢者や覚者は意識レベルの観点でいえば程度の違いはあるといえますが、本質的にはみな同じ理解と知覚に到達しています。それ以外の違いといえば、それは肉体精神機構の個性の違い、つまりエゴの形の違いしかありません。その違いというのがなんであれ、それは幻想なので、覚者はほかの覚者に興味を持ちません。しかし、そういう人が存在するということには敬意と愛情を感じることでしょう。

あ、といって、もし会ったなら普通に話すことはもちろん可能ですよ。というより、普通に話す以外なにもありません。高い意識レベルの相乗効果でなにかすごいことが起きるとか、テレパシーで意思疎通ができるとか、そんなことはありません😆 ただ、話してみればお互い話しやすい相手だと感じる(自己中心性がともにないので)でしょうね。そのうえで話があうかどうかは肉体精神機構の持っている個性の相性次第です。ただ、繰り返しにはなりますが、覚者のレベルではもはや他の肉体精神機構の個性に興味はありません。

いっぽうで探求者においては、覚者や賢者がそれを反映している一なる意識のパワーの方ではなく、覚者の肉体精神機構の個性の方に執着することは往々にしてあります。これはしかし、探求者には真理と幻想を識別することができないことを考えると当然の傾向ではあります。その傾向を熟知したうえで、弟子が誤った偶像崇拝に陥らないように指導できるのが本物のマスターです。

そういえばもう一つ、ホーキンズ博士が本の中で、博士とおなじくらいの意識レベルの人物とニューヨークの街角で出合ったことがあると書いていたことを思いましました。このときはすれ違いざまに目があっただけですが、互いの存在を理解し合ったそうです。博士の意識レベルははっきりと明示されていませんが、色々な記述を総合するとすくなくとも900台であったと推定できます。そのような人物が地球上で偶然、同じくらいの意識レベルの持ち主と出合うことは非常に稀なことだったと思いますが、それが起こったときには当事者同士にはそのことが分かるのですね。

しかし、そのときも目と目で通じ合ったということ以上の行為はなにも起きませんでした。このときそれぞれの胸中に湧き上がったのは、相手の存在への深い慈愛であったとわたしは思います。ほかにはなにも必要ではありませんでした。

パラドックスになりませんか?

さて、もうお分かりかと思いますが、ここでいうパラドックスとは、「一なる意識と一なる意識が出会うって矛盾しているのでは?」ということだったと思います。しかし、実際に出会っているのは一なる意識という場に現れている二つの分離した(幻想としての)個人でした。つまり、パラドックスはありません。

そもそもパラドックスとは「逆説」「背理」「逆理」といった意味の言葉ですが、分かりやすくいえば矛盾を含む論理ということになるかと思います。ポイントは論理です。論理とは人間の心が作り出すもので、真理は論理を超えたところにあります。つまり、矛盾やパラドックスを感じるということは、すくなくともその考えは真理に根ざしたものではないと判断することができます


もうひとつの観点

さて、ここでもうひとつの観点から見てみましょう。

以前、こんな記事を書いたことがあります。

質問者さんが「私の意識の中」といったとき、それはこの記事でいう My宇宙という観点を踏まえたものだったかもしれません。

たしかに一人一宇宙というのは真実です。実際に、肉体精神機構はそれぞれ個別的な気づきを持っていて、この気づきによって自分の宇宙(世界)を創造しています。そして、この観点を持つことによって多くのことが理解できるようになります。祈りがなぜ聞き遂げられるのか? なぜ感謝が大切なのか? なぜ意識レベルを高めることが世界に貢献するための唯一のことなのか? といった質問には、自分こそが自分の宇宙の創造者であるから、と答えることができます。そして、この観点はただの説明のための方便などではなく、真理を反映してもいます。

しかしながら、My宇宙はほかの肉体精神機構の宇宙と分離しているわけではありません。個別の肉体精神機構の宇宙は全宇宙の一部であり、かつ、その部分の中に宇宙の全体を含んでいます。つまり、宇宙と人間はホログラムの関係になっているのです。

つまり、一人一宇宙ではあるけれど、宇宙はたった一つであり、人数分の宇宙があるわけではないのです。これが宇宙と意識の秘密です。宇宙と意識はおなじものの別の呼び方ですから、一人一意識ではあるけれど、意識はたった一つであると言っているのと同じことになります。このホログラム性については熟考に熟考を重ねてどうか腑に落としてください。

こんにちは私の意識の中のBlackさん。

さて、もういちど冒頭の文章に戻ってきましょう。私の意識の中の、という表現は間違ってはいませんが、正確には「私の意識の中のに現れている」ということです。意識と心を分けて考えることは一般的な文脈では不要ですが、霊的な理解を促すためには絶対に必要なことです。また、意識は存在するすべてですから、ここでいう意識は「見かけ上個別のものに思える私の意識」ということです。つまり、それがMy宇宙のことですね。

私の意識であるところのMy宇宙の中に質問者さんの肉体精神機構が存在し、この肉体精神機構の精神の部分のことを「心」と呼びます。Blackという人物の名前やイメージはこの心に現れたコンテントです。

仮にこのBlackという人物が実際に質問者さんの目の前に現れたとしても、それはやはり質問者さんのMy宇宙(つまり個別の意識)に現れたコンテントでしかありません。コンテントとは形や中身のことであり、すべてのコンテントは見かけ上のもの(幻想)です。コンテントは色であり、コンテクストである意識は空です。

探求者のさまざまな疑問や質問は、基本的にはすべて分離した個人が分離したほかの事物を見ている、という視点から起こっています。さきほども述べたようにそれは無理からぬことではありますが、ゆえにどのような質問も「その質問はどのように分離した視点からなされているか?」を解き明かすことがその答え方となります。

身近に真理に興味を持った知り合いがたまたまなのか必然なのかいないので気になります。

これはたまたまです😌 ただ、たまたまではありますが、それはよいことですよ。

真理に興味を持っている人を探求者と呼ぶとして、探求者にもさまざまな意識レベルの人がいます。ですから、探求者同士で話をしても意見が一致しないことが多いかもしれません。それに大前提として探求をしている時点で真理を知覚できていないわけですから、個人的な意見としては、探求者同士の交流というのは意味がないと思います。意味がないばかりか、誤った理解に互いを落とし込む危険性が高いです。

この界隈には勉強会という趣の会が多々ありますが、勉強会というのは一緒に勉強しましょうということですから、その会の代表者もまた勉強中であるということを意味しています。もしそうでないのなら勉強会と言わず、教えたければ単に弟子をとればよいわけですから。勉強会を立ち上げてしまうのは、自分はまだ悟ってはいないが悟ってないとは言いたくない、しかし人よりちょっと上からものを言ってみたい人です。仮にそこに善意があったとしても、真理を知覚していない人が他者にそれを教えようとするのは無責任以外のなにものでもありません。

ともかく、誰かと一緒に学ぼうなどとは思わないほうがいいですし、探求者の知り合いをつくって情報交換しようといったことを考えるのもやめたほうがよいです。そういう意味で、そういう知り合いがいらっしゃらないことは幸運だと思います😉✨️✨️

今回はこれで以上になります。参考になりましたら幸いに思います。お読みくださってありがとうございました。またのご質問をお待ちしていますね。


おまけ

Audible の聴き放題対象だったので聞いてみましたが、なかなか面白かったです。わたしは陰謀論者というか陰謀論マニアなので、中にはいくつか反論したい話もありましたが、それはそれとしてこの本が伝える内容は多くの人が知っておくべきです。霊的なことを探求している人にとっても馴染みのあるあの有名なマスターについても結構詳しく紹介されていました。

単純に面白い本なので、気になる人はKindleや紙の書籍で買ってもいいかもしれません。

ちなみに Audibleはときどき三ヶ月無料体験とかやっているので、そういうときにお試しで聞いてみるといいです。通勤時間が長い人にはとくにおすすめですよ。

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BLACK
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