質問箱への回答㉚『虚無感の正体』
またご質問をいただいたので、本日2つ目の記事投稿になります。さっそくですが、質問の内容はこちらになります。
びわ子さんからのご質問です。こちらこそ質問してくださって、ありがとうございます😊 体調ですが、もうだいぶよくなったのですがやる気が出てこなくて今日もお休みしていました。明日から本気を出します。
ちなみにですが、わたしが記事を書いているのはたいてい体調を崩して仕事を休んでいるときです。体調といってもわたしの場合は熱を出していることがほとんどで、外に出て自転車で走り回るのは無理なんですがこうして記事を書くのはわりと平気なのです。そして、そういうときに得てして「こういう記事を書け」という指示が降りてきたり、こうして質問をいただいたりすることが多いです。なので、これはなんというか霊的なバイオリズムのようなものだと思っていますね。しらんけど。
というわけで、それでは回答していきますね。
まず、一言でいえば虚無感とは『意味の無さに打ちのめされる感覚』です。人は自らを行為者であると錯覚しているため、自分の行為には意味があるべきだと思いこんでいます。ただし、ほとんどの人はなにが本当に意味のあることなのかを知りません。質問文を前後しますが、
こちらで引用されている「パワーか、フォースか」の当該箇所は、この「意味」について述べられている文脈のなかの一節ですね。ここでの「意味」とは生きる意味、人生の意味といったことですが、生きることも人生も、日々の思考と行動の積み重ねです。ですから、人間の活動のすべての意味のことだとお考えください。
博士が述べるところの "意味がある" とは、統合的であり、生命(=世界)にとって有益であるということです。分かりやすいところでは利他的な行動には意味があります。自他を超えて全体を利するような行動はさらに意味深いこととなります。こうした "意味のある" 行動は例外なくパワーに支えられています。言い換えると意識レベル200以上の動機と、そこから生まれる行動にはすべて意味があるということです。
一方、分離的で自己中心的な考えや、その考えに基づいた行動はフォースによって駆り立てられています。こうした考えや行動はエゴにとって正当化されますが、その場の欲求を満たすだけの一時的な目標にしかなり得ないので、本質的な意味に欠けていると言えるでしょう。
フォースの領域ではエネルギーは自分自身を生かすのにさえ足りていません。パワーの領域では、エネルギーは分け与えることが可能であり、それは分かち合われることでさらに増幅します。意味があるかないかは、この観点からも理解できるはずです。
さて、話を虚無感に戻しますが、そうすると虚無感とは、自分が情熱を傾けてやってきたことや、長い間従事してきたことの多くがフォースの領域に関わることであったと気づかされるときに訪れる感情ということになります。
これには、やってきたことそれ自体がどんなものであったかということはもちろんですが、それにどういう姿勢で向き合ってきたかも関係します。どう考えても無意味に思えるような仕事であっても、一緒に働く周囲の人たちを喜ばせよう、幸せにしようという思いでやっていたなら、それは意味があることです。逆に、一般的に社会への貢献度が高いとみなされているような仕事に従事していても、その動機が人から称賛されたいという自己中心的なものであったり、見返りを期待してのものであったり、あるいはただ生活の糧を得るためだったりしては、意味は乏しくなります。
まず、その同僚の方に今後もしアドバイスされるのでしたら、虚無感に陥った原因については触れず、今後のこととして、なにかこれまでとは違う形で人の役に立てるような活動(たとえばボランティアとか)に取り組んでみることを提案するか、そういうことに関心が向くような話をされるとよいと思います。
「パワーか、フォースか」の当該箇所の直前には『生きる意味を失うと、まず、最初にうつ病になります。』とありますね。その方が診断のつく鬱であるかどうかはともかく、このことからも、その方が生きる意味を見失われていることが想像できます。わたしの意見では、その方の場合はこれまでやってきたことが無意味だったというのではなく、むしろ、これまで意味のある生き方をされてきたからこそ、定年が近づいたことによって『これからは意味のある人生を送れなくなるのではないか』という不安が意識レベルを低下させ、虚無感を呼び込んでいるように思います。
余談ですが、うつ病を治すには『生きる意味を取り戻す』ことが必要になります。生きる意味はパワーの領域にしか見いだせません。うつ病に限らず、すべての精神的な不調は意識レベルの低下(200以下)を伴っています。この領域にいる人々が霊的な探求に取り組むことは非常に難しいですが、ネガティブなアトラクターの影響を排除する努力であればできなくはないでしょう。ちょうど先ほどアップした記事に掲載したリストにあるような言動を慎むようにするだけでも、こうした疾患が回復する可能性は大いにあるはずです。
なお、わたしは意識レベルを高める上でもっとも大切でもっとも効果的なこととして、『身近な人々(家族や友人や隣人)の役に立つこと』と『誰にでも親切に接すること』を提案しています。これらももちろんですが、虚無感への強力な処方となるでしょう。
はい。それはびわ子さんの意識レベルがこの数年で飛躍したからですね。意識のスケールの表に各レベルを代表する動機が書かれていますね。200は "勇気" 、350は"受容" といったあれです。パワーの領域にある動機によって成される行為はすべて意味があるものですから、顕在意識において生きる意味について明確に考えたりしていなくても、その領域にいる人は意味のある人生を生きています。ですから虚無感に襲われることもありません。
フォースに付き添う一時的な目標には、日々の暮らしにおける些細なものも含まれます。お腹が空いたからご飯を食べたとか、明後日から連休なので、それまでは頑張ろう(頑張った)とか、そういうものも目標とその達成です。ですから、そのときのびわ子さんにはなにか細々とした用事がいくつもあって、そういったものを淡々とこなしている(=達成している)中でふっと虚無感がこみ上げてきたのかもしれませんね。
ちなみに "一時的な" という言葉の真の意味は、永続しないということです。はじまりがあって終わり(達成)があるというそれ自体が一時的であるということです。反対に、パワーから生まれる目標は永続するもので、明確なゴールを不要とします。一例ですが「人々の役に立つ」という目標にゴールはありませんね。
どちらも直接関係はしていませんが、本質的なところは同じことに根ざしています。愛を感じられていないのも孤独感を感じるのも、分離の感覚が強すぎることの裏返しです。いずれもすべては一つであることへの気づきが薄いとそうなるわけです。
もちろん程度によるのですが、これらも低い意識レベルの領域で起こることです。分離感が強い人は生きる意味を感じづらく、愛を感じにくく、孤独感に苛まれます。パワーの領域で生きる人は生きる意味を感じ、愛し愛される喜びを感じることができます。そんな人が孤独なわけがありませんね。
さて、ご質問への回答としてはこれで以上になりますが、いかがでしたでしょうか? 精神的な問題のほぼすべては直接的にしろ間接的にしろ、意識レベルの低下の問題だと考えてよいと思います。直接的というのは本人の意識そのものに問題がある場合で、間接的というのは意識レベルの低い他者による影響が原因となっている場合です。多くのケースは、これらのいずれにも該当するかもしれません。
しかしいずれの場合でも、方策としては『意識レベルを回復させる』『低い意識レベルの事物(人、モノ、コト)を遠ざける』の二つになると心得ておくとよいでしょう。
びわ子さん、またのご質問をお待ちしていますね。お読みくださってありがとうございました。また次回の記事でお会いしましょう。