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怒り について(ホーキンズ博士『 I <わたし> 真実と主観性』より)

ちょっと暑すぎて夏バテ気味です。普段のように熱を出したりはしていないのですが、くそ暑いなか自転車で毎日50kmほど走っているので疲れが半端ない感じです。そういうわけで今日はお休みして、近所のスーパー銭湯に朝の8時から行ってきました。まあ、毎週行ってはいるんですけどね。

お気に入りは立って入るタイプのジェットバスです。これで足の甲や足首、ふくらはぎに膝の裏といったリンパの詰まりやすい部位をマッサージするとめっちゃ気持ちいいです。20分くらい入念にやって、それから屋外の露天風呂スペースにいってまずは外気浴で体を冷まします。そのあと、露天の炭酸風呂にゆっくりと浸かります。普段わたしはテレビを観ませんが、この炭酸風呂のところにはテレビが備えつけられているので、そのときだけワイドショーを観ています。

ちなみにサウナには滅多と入りません。真冬に体が冷えたときだけ、体を芯から温めるために入ることがありますが、それも一回だけで、出たあとに水風呂には絶対に入りません。あれは体に悪いと思います。サウナで整うという感覚は分かるのですが、あれって実は高温のサウナと冷たい水風呂に交互に入ることで急激な温度変化によるストレスがかかって、それを緩和するためにβ-エンドルフィンが出ているんですよね。従って、たしかにそのときは気持ちいいんですが、健康増進効果はないばかりか、むしろ体調を崩すリスクが高いです。

入浴後はたいていマッサージチェアを利用します。いまそのスーパー銭湯に置いてあるのはパナソニックの高級機種で、16分で600円とマッサージチェアとしてはちょっとお高いですが、なかなかよく出来ていて気持ちいいです。わたしは元プロのマッサージセラピストなので断言できますが、世の中のマッサージセラピストの半分はこの機械に負けています。それを踏まえると、このマッサージチェアを2回使っても32分で1200円なのはむしろ安いですね。


プライドと欲望と怒りの位置づけについて

さて今回もホーキンズ博士の『 I <わたし> 真実と主観性』の内容について引用していきたいと思います。テーマは "怒り" です。

これまでこのシリーズでは "プライド(傲慢さ)""欲望(強欲)" について取り上げてきました。意識レベルでいうとプライドは175で、怒りは150、そして欲望は125となります。プライドと欲望の中間に位置しているのが怒りということですね。

以前にもお話しましたが、意識レベルの段階を表すプライドや怒り、欲望といった用語はそれぞれそのレベルの人々にとっての「人生の動機」を代表しています。人生の動機とは、人生をドライブさせるもの、駆動させるものということです。ですから意識レベル125付近の人々は欲望に駆られ、欲望を満たすために行動し、人生を切り開いていると言えますね。

このことから、意識レベルを高めるということは、より高い動機を獲得することによって達成されるのだということもできます。例えば無気力(50)のレベルにいる人がなにかに恐怖(100)を覚えることによって、その恐怖から逃れようと行動しはじめたとしたら、それは少なくとも無気力を脱したということになります。

怒りが欲望の一つ上にあり、かつプライドの一つ下にあるということが意味しているのは、欲望が怒りへと発展し、さらに怒りがプライドへと姿を変えるという成長の流れが存在しているということです。もちろん、意識の進化は一足飛びに起こることもありますが、基本的にはゆっくりと段階的に起きていくものです。

そのため、仮にその人の意識レベルが現状150の怒りのレベルであっても、その人が欲望を克服しているとは言い難く、また、傲慢さも持ち合わせている可能性は非常に高いです。意識レベルの測定値が示しているのは、いずれのアトラクターの影響力がもっとも強いかということですが、単純に考えるならもっとも影響力の強いアトラクターに近接する別のアトラクターの影響力も相当に強いはずです。

これが例えば意識レベル300台の上部よりも高いレベルの人になってくると、200以下のネガティブなアトラクターの影響力は全体として低くなっているわけですが、その場合はその人のカルマに由来する特定の低いアトラクターの影響力だけが強く残っていたりします。非常に知的であり、かといって傲慢でもないし怒ることもないけれども色欲だけは制御できない人、といった具合です。

一方で、先ほどの繰り返しにもなりますが、意識レベルが100以上 200以下の領域にある人々においては、プライドも怒りも欲望も相応に持ち合わせているはずです。たまたま現時点において、どのアトラクターの影響力が一番強いかによって測定値は決まりますが、本質的にはこの領域の人々は強欲さと怒りやすさと傲慢さのコンプレックス(複合体)の状態にあると考えられます。

というのも、欲望があり、これが満たされないと怒りが生じ、怒っている自分を正当化するために傲慢さをこうした人たちは身に着けていくからです。


怒りの起源

さて、それでは博士の記述を引用していきましょう。

怒りは幼年期に始まり、これは自己陶酔的な欠乏感に由来します。その起源は、先天的に食料や縄張り、交尾の相手をめぐって競い合う動物世界の中に見ることができます。より洗練された成人期においては、怒りはより入念なものとなり、"善" 対 "悪" 、"罪" 対 "無実" 、あるいは欲求不満を生み出す期待などの立ち位置や社会問題に適応されます。

自己陶酔的な欠乏感というのは、自分はそれを得られて当然であるという自我の陶酔的な本質からくる欠乏感のことです。得られないこととそれが欠乏しているということは必ずしも一致しませんが、自我はこれらを混同してしまいます。自我は常に自己陶酔的な性質を持っており、そしてこの性質が極まったものがプライドです。

欲望について解説した前回の記事で、欲望の起源は動物の生体上の空腹感にあるという博士の指摘を紹介しましたが、この原始的な欲望が満たされたり満たされなかったりということが起こってくるなかで自我は、欲望は満たされるべきであり満たされて当然であると思い込みます。しかしながら現実にはそれが満たされないことも頻繁にあるわけですが、それに対する自我の反応が "怒り" なのです。これは人間社会における幼年期にも、個体としての人間の幼年期にも当てはまることです。つまり怒りとは人間の幼稚性、未熟性、動物性の発露でもあります。

したがって成人期というのも、社会の成熟期のことでもあり、大人になった個人のことでもあります。そこでは怒りが表現される対象は複雑で高度なものになり、表現の仕方も手の込んだものになっていきますが、これは幼年期の原始的な怒りがより高い次元の怒りに進化したということではありません。怒りの本質はいつでも自我の自己陶酔性にあります。言いかえると、誰のどんな怒りであれ、それは幼稚なものです。


過度の期待が怒りを生み出す

怒りの当事者から観察者の視点に焦点をシフトすると、自我の立ち位置としての自己陶酔的な過度の期待が、本人を怒りっぽくさせていることがわかります。怒っている人は、密かに自分が欲望や願望を抱いて当然であると思っており、人生に対して実現不可能な期待を持っています。また、怒りは態度や脆弱な自我の立ち位置となって表れます。それは、健全な自己主張ではなく、攻撃性につながります。

怒りの当事者から観察者の視点に焦点をシフトする、ことがもしその当事者に可能であれば怒りを克服することは難しくないのですけどね。ということは、逆にいえば怒りの当事者には、その場で起きていることを客観的に観察することは困難であるということです。なにを言っているのかというと、怒りであれ欲望であれプライドであれ、他のなんであれ、なにが問題なのかというと、自我がそれと一体化してしまっていることなのです。

一体化については折に触れて書いていますが、いまいちど説明すると、ある人が怒りと一体化しているというとき、それはその人がその怒りと、その怒りを感じている自分を現実だと感じているということです。こういうと、誰でもそうなんじゃないか? と思う人もいらっしゃるかもしれませんが、そんなことはありません。

一体化していることを別の表現で言い表すなら、「臨場感を感じている」としてもいいかもしれません。怒りに臨場感を感じているなら、怒りと一体化しているということです。


怒っている人は、密かに自分が欲望や願望を抱いて当然であると思っており、人生に対して実現不可能な期待を持っています

さて、自我は基本的に自己陶酔的であるとすでに書きました。自己陶酔的とは、自己中心的であることとも大体同じです。そのような自我にとって欲望や願望を持つことは当然の権利です。自我には肉体を生存させ続けるという目的があるため、自分にはそのような権利があると考えることはまったく自然です。

しかしながら、そのような権利があるからといっても、すべての欲望や願望が満たされるべきかというと決してそんなことはありませんし、実際に満たされないこともままあるわけです。こんなことは冷静に考えれば誰にでも分かる話なのです――と言いたいところなのですが、それがそうでもないのですよね。

怒っている人がなぜ怒っているのかというと、その場のその状況が自分の望んでいるものと違うからです。その望んでいるものというのが自我の自己陶酔的で自己中心的な性質から来るものである場合、それはそもそも実現不可能だったりするわけです。

「こんなに頑張って働いているのに給料が安い!」といって怒る気持ちは理解できますが、どんな理由にせよその仕事を選んでやっているのはその人なのですから、怒っても仕方がないことです。嫌なら仕事を変えるか、冷静に雇い主と交渉するべきですよね。

「なんだあいつのあの態度は!許せない!」これも分かりますよ。世の中ふざけたやつらばっかりですよね😆 でも、理解しないといけないのは、そのときその相手にそれ以外の態度を取らせることは不可能だったということです。もう一ついえば、同じ人に同じ態度を取られても、あなたのように怒ったりしない人もいるということです。


怒りの解毒剤

こうした怒りに対する基本的な解毒剤は、謙虚さです。謙虚さは、怒りに養分を与える自己中心性を相殺します。怒れる人の幼児性は、人生の不公平さをののしりますが、実際にそれは子供っぽい癇癪と甘えから来ています。自己陶酔性は、欲しいものを手に入れてしかるべきだという信念を生み出しますが、それは自我の自己陶酔的な核心においては、自己のみが過度に重要視されているからです。

以前の記事で「探求者にとってもっとも理想的な資質は謙虚さである」ということを書きましたが、それは謙虚さがプライド(傲慢さ)の対極だからでした。先のところで書いたように、プライドの起源は怒りを正当化しようとすることにあるのですが、つまりそれは謙虚さは怒りの対極でもあるということを意味します。

怒りはそもそも幼稚で未熟な自己中心的態度であり、それは高尚とみなされている義憤においても本質的になんら変わりません。ですから、怒りを克服するためには謙虚さを学び、理解し、身につける必要があるのです。謙虚さの元になるのは、すべての存在は同じ一つの意識の異なる現れであること、神のもとにおいてすべての人は等しく同じであること、神がすべての人のすべての思考と行為を生み出していること、への理解です。


それは自我の自己陶酔的な核心においては、自己のみが過度に重要視されているから

自我はそもそも自己陶酔的なのですが、それというのも自我は自分のことばかり考えているからです。重要性というのは、実はそれについてどれだけ考えたかによって決まってしまうのですが、それゆえ自我は自分のことを過度に重要だとみなしてしまうのです。

重要性については「リアリティ・トランサーフィンの考察シリーズ」と、in SPIRE の記事でもそれぞれ異なるアプローチで触れています。今回のテーマとは直接関係ないですが、重要性の問題について理解を深めることはとても有意義ですので、よかったら読んでみてください。


さて、最後の引用文となります。

怒りの発達を防ぐための最も有益な方法は、相手を自らと平等と見、過度に期待することをやめ、謙虚さによって、自らの欲求を満たすことを神に明け渡すことです。執着の度合いを軽減し、自我の要求と期待を放棄することによって、怒りは和らぎます。

すべて重要なので全文を太字にさせてもらいました。とくにコメントするべき点もないのですが、強いていうならこの怒りに関する記述だけでなく、全般的に博士は「明け渡し」を勧めています。

しかしながら、明け渡し(バクティ)はそう簡単にできるものではありません。怒りを抑えきれない人が怒りを明け渡しなさいと言われて「そうか!」とはならないですよね。ですから、明け渡しの道ははじめは基本的に「我慢の道」でもあります。修道院での禁欲生活も目指しているものは欲を明け渡すことですが、ほとんどの修行者にとってそれはただの我慢でしかないことでしょう。けれども我慢の果てに、ごく少数の修行者の自我には明け渡しが起こることがあるはずです。

ですから、怒りっぽい人がやるべきなのは、当たり前ですが怒ることを我慢することです。簡単にはいかないと思いますが、それでも我慢するしかありません。怒ってしまったら、その怒りを鎮めることは相当に大変です。それに比べれば怒る前に我慢することはまだ簡単ですから、やってみる価値はあるはずです。怒りそのものを明け渡すのはすぐには無理であっても、なぜ我慢しないといけないの? というその気持ちを明け渡すことなら、なんとかできるかもしれませんよ。

さらに、この引用文に書かれているように他者を自分とを平等に見るようにする努力をしてみましょう。そして、自分が他者や世界に対して抱いている期待を総点検して、そこに過度で実現不可能なものはないかとチェックしてみましょう

こうしたことを行っていくうちに謙虚さが養われていくでしょう。するとその謙虚さが、欲求はなんでもかんでも満たされるべきではない(満たされないことがあっても当然)という理解を生みますが、実はそれが欲求を神に明け渡すということの意味なのです。つまり明け渡しとは行為ではなく、結果なのです。言いかえると明け渡しは起こすことではなく、起こることです。自我にはなにひとつ明け渡すことはできません。明け渡しが、自我に起こるのです。

明け渡しそのものについては、ジョセフ・ベナーの著作や奇跡講座を学んでみられるとよいでしょう。またジュニャーナ(智慧の道、理解の道)においても、最終的な理解においては自由意志の不在へと到達します。これは実は明け渡しとまったく同じものなので、いずれの学びの道を選んでもたどり着くところはおなじです。わたしが書いているものも形としてはジュニャーナですが、結局のところ明け渡しについて語っていることになります。

はい。というわけで、ここまでにプライド、欲望、怒りについて書いてきましたが、これら3つはすべて謙虚さの欠如のあらわれです。謙虚さとは、実をいうと外に向けた態度ではなく、ひとつの理解です。その理解とは、すべては一つであることへの知覚です。すべてが一つであるなら、ほかのものよりも重要ななにかなどありません。そもそも「ほかのもの」がないわけですから。ですから当然、自分が他者よりも優遇されるべき理由などどこにもありません。この理解は自己中心性、つまり利己主義を否定しますが、かといって利他主義を尊ぶわけでもありません。利己にせよ利他にせよ、そこには自他の分離があるわけで、利他主義というのも重要視する対象が自己から他者へと変わっただけでこれも欲望や怒りやプライドの温床となりえます。

必要なのは、誰も(なにも)特別ではないという理解です。その理解が謙虚さを育む種子となります。

さて、今回はこれでおしまいですが、以前の質問箱への回答で怒りについての問題を扱った記事がありますので、そちらも参考としてお読みください。


お読みくださってありがとうございました。また次の記事でお会いしましょう。


おまけ

宮川春菜さんのギターはいいぞ。

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