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ホーキンズ博士が語るラマナ・マハルシとニサルガダッタ・マハラジ

先週末から急に気温が下がってきたのに対応できず調子を崩してしまって、今週はずっと仕事をお休みしていました。もっとも、秋口と春先は毎年こうなので、なにも問題はありません。たぶん明日は働けそうです。

その間に日本では次期総理大臣が決まりました。わたしは政治や世界情勢には人並み以上に関心を持っていますが、そこで思っていることについてここで語ることはしません。わたしがやるべきことは他にあるので、そうしたことは他の方々にお任せしているつもりでいます。と言いつつ一つだけ述べるなら、政治や経済について誰がどんなことを言っているとしても、それは必ずその人の立ち位置からの発言であるということです。

いかなる立ち位置をも排した公平公正な意見などというものは、政治に関する限り、絶対にありえません。なぜなら、そもそも政治とは異なる立ち位置にある人々の間で合意を目指すプロセスだからです。そういうものである政治の動きに対する市民の意見もまた個々の立ち位置と切り離すことができません。ですからSNSでどこの馬の骨やら分からない声だけ大きい人物の発言などに耳を傾けるのはやめた方がよいと思いますよ。

それよりも、自分自身の置かれている立ち位置をしっかり把握して、その立ち位置にとって今の政策はどうなのかを考え、もしそれが歓迎できないものであるなら、次の選挙ではよりよい政策を掲げている党や人に投票するようにしましょう。そうするために他の人の意見を気にする必要はありません。なお、ここで言っているのは自分の生活がそこに依存しているところの立ち位置であって、保守やリベラルといった政治思想的な立ち位置のことではありません。

……と、立ち位置について話をしましたが、霊的な探求においては自我が拠って立つあらゆる立ち位置を放棄していくことが必要です。立ち位置となるものは例えば職業や肩書であったり、あるいは属している年齢層や家族構成などです。基本的に、自我はそうした立ち位置と自分を同一視しています。つまり、ほとんどの人は立ち位置と一体化して生きていると言ってよいでしょう。ですから霊的探求においては、◯◯という企業で課長をやっている自分という立ち位置を放棄していくことになります。そのためには、自らの言動がなんらかの立ち位置から発しているものであることに気づく必要があります。別の観点でいえば、なんであれ何者かであることをやめるというのが立ち位置の放棄です。そして最後の最後に残るのが「自分は行為者である」という立ち位置です。

さて、今回はまたホーキンズ博士の「わたし <真実と主観性>」からの引用です。ここ最近の記事でラマナ・マハルシについて書きましたが、ちょうどホーキンズ博士がラマナ・マハルシと、ニサルガダッタ・マハラジについて言及している文章がありましたので、それを紹介したいと思います。それでは早速みていきましょう。


Q:伝統的に馴染みのある霊的浄化の実践方法以外にも、推奨される数々の方法があります。たとえば、ラマナ・マハルシが説く「自己探求」もそのひとつです。これは本当に有効なのでしょうか?

A:聖者たちの教えはすべて貴重です。ラマナ・マハルシの教えは700台に測定されます。同時代のもう一人の覚者、ニサルガダッタ・マハラジと同様に、彼は近代の聖者であり、言葉が逐一記録されていることは非常に貴重です。マハルシは、霊的な求道者には、次のふたつの主要な道が開かれていると説きました。

1.自らを完全に神に明け渡すこと。
2.「自己探求」によって、「自己」(真我)を実現すること。

二番目の方法は、求道者が常に心の中で「わたしは誰か?」と説い続けることにかかっています。意識の焦点を内面に向けることで、外的な世界から脱出し、「意識の光」である「内なる臨在」を発見するという方法です。(「わたしは何か?」と問うほうが、「誰か?」よりも有効です)。

「わたし <真実と主観性>」

霊的浄化というとき、浄化されるのは意識です。正確には肉体精神機構に宿っている個別意識のことですね。意識が浄化される=意識レベルが高まる、という風に考えるとよいでしょう。覚醒や悟りは霊的な浄化の結果として起こり得る事象ですが、探求者が未だ覚醒に至らないからといって彼の行っている努力が無意味だということは決してありません。博士があらわした意識のスケールの意義は、覚醒や悟りだけが霊的探求のゴールではないことを誰が見ても分かるように示したことにあります。

ここではマハルシの推奨した方法を「真我探求」ではなく「自己探求」と呼んでいますが、どちらでも意味は同じです。「自己」というと分かりにくいかもしれませんが、原著の英文では、博士は自己について小文字の "self" と大文字の "SELF" を区別しており、小文字の "self" は小さい我、つまりエゴのことを指し、大文字の "SELF" は非個人的な唯一の主観性、すなわち真我をあらわしています。

わたしが読んでいる対話集でも確かにそうですが、マハルシは基本的には神への完全なる明け渡しをしなさいとまず言っているようです。そして、それができないなら、というか普通はできないので、それなら真我探求をしなさいと勧めています。

真我探求の具体的なやり方についてはこの間の記事で例を示しましたが、あらためてやってみましょう。ただし、ここで博士も補足しているように、真我探求は「わたしは誰か?」ではなく「わたしは何か?」が正しいです。博士は誰かよりも何かのほうがいいよとしか書いていませんが、それはすでに世に広まってしまっている「わたしは誰か?」という誤りの犯人探しのようなことを望まなかったからでしょう。

真我探求の一例
「わたしは何か?」
「わたしとは、この肉体だろうか? いや、違う。肉体はわたしの所有するものであって、わたしそのものではない」
「それでは、◯◯というこの名前がわたしだろうか? いや、やはり違う。名前はこの肉体を指し示す言葉にすぎない」
「いまこの探求をしているこの心、これこそがわたしだろうか? たしかにそのように思える。しかし、いまのこの心と、夢を見ているときの心はどこか違う。それに、心がわたしなのだとしたら、熟睡しているときはわたしは存在しないのだろうか? そう思いたくはないが、しかし熟睡時には心は不在である……ということは、つまり、わたしとは……?」

※最初の問いが「わたしは誰か?」だとこのような自問自答にはならないことが分かるはずです。

真我(わたし)を直接探すことはできないので、真我ではないものを見出し、それを消去していくのが真我探求のポイントです。このやり方は非常にシンプルですが、とても効果的だと思います。とはいえ、一例として上に書いたものはあらゆる行き詰まりを排した正解ルートをゴールの目前まで簡潔に示したものなので、探求者が最初からこんな風に簡単にいくことはありません。とはいえ、ジュニャーナ(智慧の道)の探求者であれば、この短い自問自答の意味がなんとなくにしても分かるのではないでしょうか。

ジュニャーナが学ぶ非二元論(アドヴァイタ)はなにが真実で、なにが虚偽(幻想)なのかを教えているわけです。簡単に言うと真実とは「分離はない(すべては一つである)」ということで、虚偽(幻想)とは「分離があるという観点にたったあらゆるもの」です。そして虚偽(幻想)の最たるものが世界から分離独立して行為している自分(=エゴ)です。エゴの幻想性を見抜くことによってエゴ(のすくなくとも自己中心的な性質)は消滅しますが、これは真我を見出すことを意味しています。

つまり、真我探求とはジュニャーナの非常に洗練されたものと言ってよいでしょう。漫然とアドヴァイタを学んでいると、自分がなにを探しているのかを見失いがちです。その点、真我探求は最初から探すべきものが決まっているのでそのような迷いはありません。もっとも、優れたアドヴァイタの師は生徒をそのような迷い道へと連れて行くことはありませんけどね。そういう意味では、特定の師について教わっていない人は真我探求にコミットしながら、アドヴァイタを学ぶとよいかもしれません。

さて、次の引用文です。

マハルシの言葉を映写機にたとえて説明すると、「自己」の光である電球がフィルム上の形象、すなわち自我の知覚や立ち位置、信念というコンテントを照らし出し、意識のスクリーンに映画として映します。それを見て、未だ覚醒に至っていない人は、映画の中に形があるのだと勘違いしてしまいます。

この部分を要約すると、「映画はすべて幻想である」ということになります。これが先ほどの真我探求における自問自答を解決するヒントになるのですが、つまり、『この世界という映画』のスクリーンに映っているものはすべて「わたし」ではないということです。登場人物の肉体はもちろん、心もそうです。映画の中には「わたし」はありません。だとするなら、「わたし(真我)」はどこにあるのでしょうか? 考えてみてください。それが真我探求です。

マハルシは、内なる霊的なハートに気づき、それをしっかりととらえることが重要だと述べています。内なるハートは、効果的な瞑想の焦点でもあります。彼はまた、仕事をしながらでも、絶えずこの方法を実践し続けることが重要で、必ずしも隠遁する必要はないと説いています。マハルシは、自我の正体について言及していませんが、人間のオーラを形成している七つの霊体について具体的に述べています。生徒たちが満足のいく結果を得られないとき、彼は頻繁にニサルガダッタ・マハラジのもとを訪ねるように促しました。マハラジは、当時もまだ教えを説いており、そのスタイルはより無骨で挑戦的でした。

マハルシがいうハートとは肉体における心臓のことではなく、霊的なセンターとしてのハートのことです。ですからそれはもちろん肉体のどこかに存在しているのではありませんが、場所を探すなら、それは胸の右側だそうです。心臓はやや左にありますが、霊的なハートは右だとマハルシは言っています。わたしは瞑想をしないので分かりませんが、博士もそのように指摘していますから瞑想時にはこの霊的なハートに意識を置くようにするのがよいのでしょう。そして、瞑想時だけでなく、どんなときでもハートに気づいているようになりなさい、ということですね。

ここで博士がいう "自我の正体" とは、単に観念の集合体であるという意味ではなく、より霊的な観点からみた正体であろうと思われます。これについてはジョセフ・ベナーの「あなたの内なるキリスト意識」という本に、それと関連するであろう情報が書かれています。以下の記事にて言及していますので、興味のある人は読んでみてください。ここでは自我の起源はアストラルに関わりがあるとだけ指摘しておきますが、そうでなければ、それに続く「人間のオーラを形成している七つの霊体」という言葉が出てくる意味が分からないですよね。

ちなみに、人間のオーラを形成している七つの霊体とはなんでしょうか? エーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体の4つはすぐに思い浮かびますが、あとの3つはわたしもよく分からないですね。ブッディ体とかセレスティアル体といった言葉は目にしたことがありますが、詳しいことは知りません。ただ、三度目に訪れた石垣島で🍄を食べたときに受け取ったメッセージには次のようなものがありました。

  • 自我とは全体性における一つの座標であり視点である。肉体精神機構は自我が物質化したものであるが、それが自我のすべてではなく、七つある自我の体のうちの、ほんの末端の部分でしかない。

  • たぶんこの7つの次元自体もより大きなオクターブの中に入れ子になっている。つまり、自己というものは無限に広がっている。どこまでの拡がりを自己と認識するかがその自我の意識レベルを表している。

これについては以下の記事の最後のほうから抜粋しました。

このメッセージによれば肉体も7つの霊体のうちの一つに数えてもよさそうですが、それ以上のことはやはり不明です。いずれにしても、ラマナ・マハルシはアストラル界についても言及していましたし、オーラについての知識も持っていて不思議はありません。

さてここでニサルガダッタ・マハラジの名前が登場します。ラマナ・マハルシは聖典からの引用を頻繁に行いますが、対照的にマハラジはすべて自らの言葉で語ります。その点が違うといえば違うのですが、対話集を読む限りにおいては二人とも『熟睡、夢見、活動』の3つの状態の比較から真我を見出させようとする話法をよく用いるなど、共通しているところも多いように思われます。

強いていえばマハルシはやや画一的に話をし、マハラジは質問者のタイプや理解度に応じた話し方をしているような印象を、わたしは感じました。とはいえ、いずれにしても生徒がさまざまであるように師もまたさまざまですから、自ずとそこには相性というものがあります。マハルシにはエゴはありませんので、目の前の質問者が自分の話をよく理解しないようであれば、マハラジのところへ行ってみなさいと勧めるのは賢者あるいは聖者として当たり前のことだと思います。

わたしがこうした記事を書くのは、読まれた方の意識レベルがわずかでも高まることを願ってです。それが動機なので、わたしは博士やラメッシやラマナ・マハルシの言葉を引用することになんの躊躇もありません。どうしても理解してもらいたいことについて、自分の言葉で語るよりも彼らの権威を借りたほうが効果的だと思ったなら迷わずそうします。わたし自身が評価されるとか称賛されるとかいったことには関心がありません。

別のところで述べたことですが、マハラジは覚醒に達すると(測定値700)、それまでの仕事や家族から離れ、ボンベイから歩き始め、表向きはヒマラヤまでたどり着いたと言われています。しかし、実際は途中で家に戻るように説得され、ビディーショップ(インドのタバコ屋)の上にある小さな屋根裏部屋で、訪問者に会っていました。マハラジは、一九八六年頃に亡くなりました。彼の霊的な実践法は、師の真理に完全に帰依し、全託するという姿勢を基盤にしていました。興味深いことに、彼の通訳であり、長年側近として行動を共にしていたラメッシ・バルセカールも覚醒に至り、後に数多くの本を執筆しました。

ラメッシの本で読んだのですが、至って普通の人であったマハラジはあるときに知人から、その人のグルを紹介されたそうです。なんの気なしに会ってみたところ、そのグルから『あなたと神はおなじである』というような意味のことを聞かされたそうです。そして、その一言がマハラジにとっては衝撃でした。それからマハラジはグルの言ったことが本当かどうか確かめるために、旅に出たといいます。それがここに書かれているボンベイ(現在のムンバイ)から歩き始めたという話です。わたしは歩き回った結果として悟りに至ったのだと思っていましたが、博士の記述によれば、悟ってから歩き始めたようですね。

なお、マハラジについてはラメッシ・バルセカールが書いた『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの ―時間以前からあった永遠の真実―』がおすすめです。

ラマナ・マハルシが覚醒に至った当時、彼は霊的な献身者ではなく、先祖代々の宗教をごく普通に信仰する青年でした。それがある日突然死の感覚に襲われ、自らの死を体験するのですが、彼はその後も肉体が生きていることを発見し、驚いたようです。その後二年間、彼は言葉を発することなく、友人の手によって命をつないでいました。彼が黙している間に、自分こそがマハルシの師であるとふれまわり、堂々と信者を集める地元の偽グルまで現れました。残りの生涯、マハルシは自らのアシュラムを離れることなく、一九五〇年頃に亡くなりました。

今回引用している文章は「最後の戸口」と題された章のなかの一節なのですが、最後の戸口とは覚醒にいたる直前に経験する自我の死のことを指しています。自我の死は緩やかに起こる場合もありますが、突然やってくることもあります。ラマナ・マハルシが体験したのは後者の、いわば自我の突然死といってもよいような事象でした。

突然であっただけでなく、マハルシの場合は単なる覚醒ではなくいきなり意識レベル700を超える劇的なケースであり、その後二年間彼は話すことができなかったのですが、推測するにそれは強烈な至福の状態がずっと続いていたのでしょう。その様子は周囲の人々には神聖な奇跡的事象に見えたはずで、それゆえ書かれているように偽のグルまで現れたのでしょう。

彼がふたたび話すことができるようになると、周囲の人はマハルシに数々の聖典を読むように勧めたそうです。それは、おそらくですが、彼が経験したことがなんであったのかを彼自身が確認できるようにとの配慮であったことでしょう。結果、彼は自身になにが起きたかを悟っただけでなく、のちに彼が人に教える際に必要となる言葉を学んだのでした。マハラジの場合は自らの足で歩きながらグルの言葉を確かめたその旅のなかで培われた内面の対話がそのまま後の彼の言葉となったのかもしれません。

そして、そんな二人の聖者たちの言葉を受け継いでいるのがラメッシ・バルセカール(ラメッシはラマナ・マハルシにも師事していました)でした。わたしはラメッシの本を最初に読み、その後にマハラジの本をすこし読み、最近はラマナ・マハルシを読んでいますが、この順番で読むと、あるいはどの順番で読んでもそうかもしれませんが、教えの系譜を感じることができてなかなか興味深いです。もっとも、いずれの聖者も言っていることは当たり前ですがみな同じです。同じことを言っているのに、こうも話し方が違うんだというところが面白いですね。

さて、今回はここまでです。お読みくださってありがとうございました。また次回の記事でお会いしましょう。


おまけ

この耳栓、とてもいいです。

うちはすぐ近くに南海電鉄の線路があるため、わたしが就寝する20時ごろはまだまだうるさいんですよね。そのせいで安眠が妨げられているとまでは思ってなかったんですが、ふと思い立って耳栓を使ってみようと思いました。

それで最初は昔からあるフォームタイプのものを試したんですが、あれってうまく耳に入らないし、入ってもしっかり拡がるまで時間もかかるし、おまけに寝ている間に高確率で外れてしまいます。その割に、遮音性はそんなに大したこともありません。

そこでというわけで、耳栓にしては高いなと思いつつ、結構な評判のこれを買ってみました。結論からいうと、おすすめです、これ。

カナル型と呼ばれるタイプのイヤホンについているイヤーチップ(ただし穴は空いていない)と、取っ手になるリング状の部品を組み合わせただけのシンプルなものです。これだと装着したり取り外したりが簡単にできますし、2週間ほど使っていますがいまのところ寝ているうちに外れたことはありません。しかもフォームタイプのものよりもずっと静かです(無音とまではいきませんが)。

個人的には、使いはじめてからよく眠れています。最初の2日ほどはちょっと違和感が気になりましたが、すぐに慣れてしまいました。もう少し安い類似品もあるようですが、イヤーチップは素材によっては痒かったりひどいときはかぶれたりしますから、レビューなどしっかりみたほうがよいかもしれません。あと、このLoop シリーズには睡眠用以外にもいくつか用途違いのものも用意されていますよ。

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