ないものねだり

「ないものねだり」ということについて考えている。

小学校の頃、クラスに色白で目がパッチリした美人がいた。その整った顔立ちが彫刻の冷たさを思い起こさせるようなクールビューティーで、小学生ながら高い化粧品を使っていたらしく、肌には一点の瑕(きず)もなかった。自分は彼女を前にすると気後れしたし、その近寄りがたい美しさはとても価値があると思った。

当の本人は、全く別のことを考えていたのだろう。彼女は、さして好きでもないのにやたらとキャラクターグッズを持っていた。そして「かわいい」と言われることを望んでいるように見えた。中学校に上がって制服を着るようになったときも、彼女は一番愛らしいデザインで知られるブランドを選んでいたが、それでも誰かに「愛らしい」「かわいい」と褒められているのは見たことがなかった。

残酷なようだけれど、彼女のそんな行動は無駄な努力だと感じる。もともと綺麗に生まれついたのだから、おとなしく綺麗にしていればいいのに、何を思って別の方向に行くのか。目指す目標を間違えれば、頑張れば頑張るほど道を踏み外すことになる。どんなに彼女が努力したって、恐らく彼女が目指しているような「親しみやすい愛らしい女性」にはなれない。

それは、自分が彼女になろうとしてもなれないのと同じことだ。私もカッコいい美しい女性に憧れて、強くキツい印象の服装を試したことがある。でも、まるで駄目だった。強いて言うなら「お姉さんのお下がりを着せられている妹」「お母さんのハイヒールを大人ぶって履いてみた娘」みたいに、背伸び感だけが出て、何も得るものがなかった。

ないものねだりの怖さはここにある。ないものねだりの努力は空回りするばかりだ。時間と手間がいたずらに浪費されるだけで。

自分のほうは、クールビューティーを諦めてソフトな印象を目指している。彼女がどうしているかは知らない。もしあの人が、白くパリッとしたシャツと細身のパンツをはいて、かっこいい女性を印象づけようとするなら、きっとすごくハマるだろう。その子のことは全然好きではないのだが、いつか自分の魅力に気づいてくれたらいい。

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メルシーベビー
本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。