ルビという文化
小学生の頃、自分はクラスで一番、漢字が得意な生徒だった。自分がいたのは田舎の公立小学校だったから、都会で私学に通った人たちには、それでも到底及ばないだろう。だけど、少なくともその小さな世界では頂点にいた。どうして自分にそれができたのか考えて、思い当たったのが「ルビ」ということだ。
幼稚園の頃から、本を読むのが好きだった。図書館からしょっちゅうのように絵本を借り、家では母親の詩集を引っ張り出してきて読んでいた。平仮名は自然と読めるようになった。漢字は知らないものがたくさんあったが、その横に小さく振られた平仮名のおかげで、意味はわからなくても音は取ることができていた。「受身形」とか「汲む」とか「大漁」なんていう言葉は、全部その頃に覚えた言葉だ。
だから、学校で習う漢字に初めて見るものなんてないと言ってよかった。書けるようになることと、読めることは全く別ものだが、全く知らないものに触れるよりは、少しでも前知識のあるもののほうが習得が早い。そういう原理で、自分は漢字の得意な子どもに育ち、ひいては国語に対する苦手意識もなくて済んだのだと思う。「子どもだから全部ひらがなで読ませよう」という教育方針によって作られた本ばかり読んでいたら、漢字の能力はその後ほとんど伸びなかったかもしれない。教育にとって大事なことは、適度な背伸びを許すことだろう。
余談だが、「受身形」を初めて覚えた詩は、吉野弘の『I was born.』である。これには「あいわずぼーん」というルビが振られていたので、この文字列の英語だけはなんとなく読めた。「汲む」は茨木のり子の詩のタイトル、「大漁」は金子みすずである。
最近「読めない漢字は平仮名で表記しよう」という意見が強いようだが、それがかえって言葉をわかりにくくしている側面がある。漢字は表意文字だから、読みはわからなくても意味がわかる場合があるが、平仮名はそうはいかない。漢字だけでは読めず、平仮名ではわかりにくい。ならばどうするか。ルビを振ればいい。言葉を発信する側が「あなたたちはこんな字、どうせ読めませんよね」と卑屈に譲歩しても、誰も得しない。「これくらいの漢字は読めるようになってね」というメッセージを込めて、ルビを振るくらいの矜持があってもいいだろう。
本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。