ありがとう、でもその善意はいらない。
善意の取り扱いはむずかしい。
生活に困っている人への寄付を呼びかけると、お古を送ってくる人がいるという。例えばシングルマザーとその子どもたちに、履き古した靴や、バラバラになった色鉛筆が「善意で」送られてくる。当事者としては嬉しくない。
いま読んでいる『子どもと女性のくらしと貧困』にそんなひとコマが出てくる。こういう事態は、どう捉えたらいいんだろうな。自分は当事者でも支援者でもないから、傍観者の立場から考えてみる。
寄付をつのる人々は「送ってくれるのは、新品か、きれいな状態の物のみでいい」と言う。ボロボロな物を送りつけられても、当事者が傷つくだけだからだ。それはそうだろう。自分が支援される側だったら「処分代わりにうちに押し付けてこないで」と思うだろう。
ただ、こういった物を「送る側」の気持ちも、わからないわけじゃない。生活に困窮している人がいると聞いた、うちにはもう使っていない物がある、これでもないよりはマシだろう、よし寄付してあげよう。きっとそんな風に考えていて、悪気はないのだ。
そしてもっと言うと、こういう人に「新品がいい」と伝えると機嫌が悪くなる。「困ってるって言うから善意で送ってあげたのに、要らないってどういうこと?それも新品を送ってよこせって?困窮している人間の分際で、ちょっと図々しくない?」
「」内は自分の想像でしかない。が、こういう思考回路でないと、ほぼゴミである物を送ったりはしない。責めているわけじゃない。「要らない物を誰かにあげて、感謝して使ってもらえたら最高。向こうも私も幸せ」という考えはまあ、わかる。気持ちはわかる。
そしてここで、ちょっと嫌な深堀りをしよう。なんで要らない物をあげたいのか。自分だったらもらいたくないであろう物を、どうして「困っている」人相手には善意で送れるのか。たぶん、相手を格下だとみなしているからそういうことになるのだ。
「困窮しているかわいそうな人」には、困窮しているままでいてほしい。私と同じように、新品やきれいなものを使ってほしくない。格下の人間には、格下のままひどい生活をしていてほしい。そうじゃないと、自分の優位性が崩れてしまう。
ゴミ同然の物を送って「あげる」ことで、「困窮している人を助けてあげてる」「わたしは道徳的な人間だ」と感じられる。かつ使わない物を処分できる。こんなにウィンウィンなことはない……。
想像でしかないことを断っておくけど、そういう考えが根底にあるんだろうな、と自分は思う。
でもね、あなたにとってのゴミは、他人にとってもゴミだったりするんですよ。中古が価値を持つのは、相手が明確に「それが欲しい」と言ったときだけ。
善意に冷や水をあびせるのは気が引けるが、支援っていうのはきれいなおままごとじゃない。「困っている人」は、自分が気持ちよくなるためのゴミ箱ではない。最悪ゴミ箱にするなら、感謝を期待すべきではない。
そしてこれは小さい声で言うのだけど、そういうときに「もらえる物はなんでももらいます!」って叫ぶ人もいる。実は、彼らは生活に困っても立ち直りが早い。自分が下に見られているのを知っていながら、相手のために「もらってあげる」ことができる人。
何をあげても「ありがとうございます!」と言う人には、ゴミばかりでなく宝石も運ばれてくる。宝石、はもちろん比喩だ。あらゆる価値あるもの、あらゆるチャンス。いつも快く何かをもらってくれる人のことは、みんな好きだ。
だから、できることならなんにだって感謝はできたほうがいいのはそう。ただそれは他人から強制されるようなことじゃない。「あなたはゴミをもらって『ありがとう』って言えないようだから生活に困るのよ!」なんて、他人から言われるようなものじゃない。
善意は美しい。でも、善意なら何をしてもいいわけじゃない。ボロボロなお古のプレゼントが、人を傷つけることもあるとわかっていたほうがいい。
本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。