ありのままで……?
「他人の目を気にしない」「人に媚びない」そう言うと響きがいい。自己啓発本なんかに書いてありそうだ。「ありのままの自分で勝負しましょう」「媚びない人は美しい」。そういうフレーズに元気づけられる人もいるだろう。
他人の目を気にしてすることって何だろう?思い付くのは外見を整えることだろうか。自分が服を選ぶとき、髪を手入れするとき、だいたい他者の視線を気にかけている。清潔感が感じられるか、とか、無駄に派手ではないか、とか。髪の毛なら跳ねてないかどうか。寝癖が取れたかどうか。
もしも他人の目を気にしなかったら、自分は今頃寝巻きを着たまま、寝癖スタイルで外出しているだろう。もしくは組み合わせがちぐはぐな服を着て、櫛も通っていない髪を下ろして平気で歩いているか。それはそれで気楽だと思うが、外で関わる人の態度は明らかに変わるだろう。
誰かと喋る時も当然、相手や周囲を気にしている。この人が言われて嫌なことは何か、頭の片隅で常に注意しているし、相手が大事に思っているものは何か、早い段階で気づきたいと思っている。それを苦痛だと思ったことはほとんどない。
自分は、他人のことを気にして会話するし、他人のことを気にして身だしなみを整えるので「他者の視線」というモチベーションを失ったら、社会性までも同時に失いそうな気がする。
他者のことを気にするから、媚びもすればお世辞も言う。でも、それが見苦しくならないようにしようと加減を図ってやるし、自尊心を保ちつつ、相手に尊敬の念や称賛を伝えられて、お互いが気持ちよく過ごせるなら、媚びもお世辞も悪くない。そうやってバランスを取りながら人間関係を構築していくほうが、自分勝手に生きるより性に合っている。
というより、他人を完全無視してまで生きることが楽しいとは思わないのだ。たとえそれが媚びだと言われようとも、相手が欲しいものや求めているものを的中させた時はなかなかの達成感がある。自分を傷つけず貶めず、他人に好かれようとすることは、かなりの高等技術であって、そういう高等な媚びは美しい。「わたし人に媚びない性格だから」を言い訳にして醜いわがままを言うよりも、ずっと高尚だ。
「媚びない」「ありのまま」があまりに礼賛される世界は、どこか未熟なように感じる。高等な媚び、美しい背伸びというものも存在していると思うと、自分はどうしたってそちらの方に惹かれて歩いていきたくなるのだ。支持されないかもしれないけど。