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いまだに「推し活」に懐疑的になってしまう話

 私は「推し活」文化に懐疑的でどこか違和感を抱いている。アニメや漫画に登場するキャラクターは、年齢や性別、人間かそうでないかといったなどといった設定とキャラクターを構成する髪型や口癖、容姿といった要素から組み合わされた「記号」であるからだ。その記号を二次創作として消費して、また別のキャラクターへと移行していく。作品の世界観を推す訳でもなく、キャラクターを推すということは、作品の断片しか見ていないのでは…?とたまに思うのだ。別にそれ自体が悪いことだとは思わないし、楽しみ方は人それぞれだ。
 アイドルに至っては生身の人間を消費することになってしまうから、なんとなく嫌だった。以前話題になっていた「日プ」でも全く知らない他人の人生に加担したくないからアイドルの投票などできない、とも思った。一生懸命頑張っているの人の加害者になりたくない。
 「推し」というのは代替可能であるし、実際自分が縋れるものだったらなんでもいいのだ。こんなこと分かっていながらニチアサのキャラクターたちを推しているのだが、ふと我に返って考えてしまうことがある。こんな感じでなんかずっとモヤモヤしている。
 だから、オタクが推し活をするときは良い意味でも悪い意味でも「盲目的になること」が必要であると思うのだ。それと、「傍観すること」。あくまで私たちは作品を見る第三者でしかないし、介入することはできない。そんなことを思いながら私は推し活をしています。もっと深掘りできるように勉強しなくては…。

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