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タイトルなんかいらない

 自由に書くということは楽しい。

 否、自由に書けないのであれば書かない――だろうか。僕は読んでくれる人に楽しんでもらえる話をここで書きたいとは思うけれども、万人にとって面白い必要もないし、場合によっては耳に痛い話っていうのもありだと思っています。

 否、オオアリ。

 実はnoteの表紙がごちゃごちゃしすぎて気持ち悪いなと思いつつも、パッと目で自分がどんな人なのか、何をしている人なのかを伝えるのにはこれでいいかと黙認していたのですが、ちょっと飽きたので? なんとなく美味そうなものに差し替えるとともに、タイトルも替えちゃいました。

 めけめけの徒然なるままにアンチテーゼ

 僕は政治的立場や物事の考え方が違う人とでも普通に交流ができるマインドを持っているのですが、たとえ同じ考えの人だとしても、あえてアンチテーゼを提示する場合があります。

 これ議論を深めるために必要な会話の手法であって、へそが曲がっているわけでも、性格が歪んでいるわけでもありません(などと当人が言うことに説得力がないことは、さておき)。

 noteにもたびたびアンチテーゼを提示させていただいておりますが、そもそもなんで僕がそのような手法をとり、アンチテーゼをよく用いるかと言えば、それは父親の影響であることを、まずはお話しなければならないでしょうか。

 昭和9年生まれの父は、函館で生をうけてそれなりに戦争体験をし、それなりに世の中が破壊から再生に向かう姿を見てきました。そこまで本人に詳しく話を聞いたわけではないですが

第二次世界大戦末期、日本は制海権を失い、アメリカ海軍の艦艇の展開を沿岸部にまで許す状態となった。アメリカ海軍の第38任務部隊は、北海道の南部から登別市の沖合へと展開していった。13隻の航空母艦から延べ3,000機以上もの艦載機を発進させ、留萌市以南の北海道の主要都市に無差別爆撃及び機銃掃射を行った。
 函館市、小樽市、帯広市、旭川市や戦略上全く意味のない農村部も攻撃され、一般市民を中心に死者2,000人を超える被害を出した(関連資料によっては2916人[1])。 またこの空襲を通じて千島列島から北海道、北海道から本州を結ぶ航路の船舶も攻撃対象となり、多くの船が撃沈または大破の被害を受けほとんどの航路が機能を失った。大動脈である青函連絡船も全連絡船12隻が被害を受け(8隻沈没、2隻大破炎上、2隻航行不能、352人死亡)、壊滅状態となった。

 僕も最近まで知らなかったのですが、函館は結構な被害にあいました。夜景で有名な函館山は当時、日本軍の”函館要塞”だったわけで、僕の祖父は工兵として機銃を設置したり、防空壕を掘ったりしたそうで、その場所などを口外しないように厳重に口止めされていたと、当時の話を聞かされました。

 戦争体験、それも敗戦を経験した人たちの心の中がどんな変化をしたかについては、手塚治虫や水木しげるの作風に知られるようにいわゆるパラダイムシフトを体験して、それまで正しいと信じていたものが、ずっとこの先も正しいとは限らないという考えや信条に至ったのは容易に想像できます。

 祖父はそういう考え方をする人ではなかったのかもしれませんが、であればなおのこと、父は絶対の正義だとか、何か物事を決めつけて考えることに対して”警戒心”を強く抱いたのかもしれません。

 そういう話を正面からできるような親子関係ではなく、これはあくまで想像なんですけどね。しかし想像するには理由があって、僕が子供の頃に父親に”~ってこういうことなの?”とやたらと質問をする時期=”どちて坊や期”に、父親は必ず”そんなことないよ”と別の可能性、別の考え方を示してくれました。

 あとはアンチ巨人だったり、判官びいきの傾向があったことも理由の一つに挙げられますが、労働者として組合やメイデイに参加するなど(僕の記憶では1990年頃にはもうそういう活動をしていなかった)、物を言わずに日々は黙々と工場で働いていましたが、言うべきことは言う、あるべきことを曲げないと言った気概というよりは危機感のようなものを持っていました。

 さて、今度は僕の話。

 そんな父に影響されたかどうか、中学生くらいになると洋楽にハマりだし、日本の歌謡曲、とくにアイドルに対しては蔑視するくらいのよくある中二病にかかります。マイナーズ・イズ・ベストとか、売れる前から応援し、売れたら”あのバンドは大衆に迎合した”などと本気で思っていましたから、まぁ、可愛げはなかったですな。

 お恥ずかしながら。

 だけど運がいいことに、そういう態度をガツンと叱ってくれる”大人な人”に後々出会うことで、病気をこじらせ過ぎずに今に至るわけですが、それでもやはり、僕の考え方は少し偏っているのだと思います。

 それはバランスが悪いことを嫌う事。

 バランスが悪いって”どんな価値観でどんな基準で決めるのさ”ってことがあるのだけれども、正直そのようなものはなくて大きな流れに対して逆らうこと、みんなが向く方法の反対を見ることでしょうかね。

 それってつまりへそ曲がりじゃん

 いや、そこはちょっと違うのですよ。へそはちゃんと中道を向いていて下流を見るのではなく上流を見るのです。僕が勝手に決めた、或いは見極めた真ん中、右でも左でもなく、上でも下でもなく、斜め上でも下でもない真ん中、摩擦係数ゼロ地帯っていうのを見つけて、そこから世界を眺めようと”努める”わけです。

 この”努める”っていうところが、よくもわるくも僕のいい加減さですかね。何かの出来事について、批判が集中しているとして、その批判の的や批判の論調、傾向に対して違う味方をする。批判が賛辞でも同じです。

 こっちから見える景色があれば、あっちから見える景色もあるのではないかと常に自分の意見が多数に流されていないかをチェックするって言い方が一番伝わるかもしれませんね。

 そして自分が知り得る情報、そこに補うべきことがあれば想像をし、物事を文脈でとらえ、普遍性や歴史的な意味、文化的、文明的、社会的な評価、費用対効果、多面的な視点で観察をして仮説、一時評価、観察、検証という手順を踏んで事象の全体像をなるべく俯瞰から見ることができれば、誤った選択をせずに済むのではないだろうか。

 そんなことを考えています。

 ですから、noteに僕が書いている文章と言うのは、まだ結論には程遠い仮説に過ぎず、仮説は常に流れに逆らう形で提言する――つまりアンチテーゼを提唱することになるわけです。

 そこから生まれる議論や、経過観察こそに意味があるのであって、僕が今回のタイトルで使っているような「~なんかいらない」は、つまりはその程度のことだとご理解いただければ幸いです。

 ということで、今回は「タイトルなんかいらない」としてみたわけですが、タイトルにつられて中身を見れば、”なんだこの程度か”ということになりがちな僕への自虐的なネタであったことを、改めましてごめんなさい。

 大袈裟で人の気を引くようなタイトルが嫌いだ!

とは、言ってない風の、でも、言っちゃっている感じのお話です。

 でんでん虫でもカタツムリでも生き物は同じなのに、前者は可愛らしく聴こえ、雨空を想像させるのに対して後者はグロテスクでのろまなイメージがつくし、画像はこんな秋空に枯葉とカタツムリなんていうのは意外性があるようで、彼らの生態から言うと普通だったりする。

多くの種は乾燥に弱いためある程度の湿度があるところに多く生息するが、乾いたところを好む種類もあり、中には砂漠の環境に適応した種さえある。ミジンマイマイやウスカワマイマイのように海岸や畑地、道路や人家周辺などの開けた場所を好む種や、深山にしか生息しない種などがあり、種ごとに地理的分布や生息環境が決まっていることが多い。中には岩の表面に住むもの、朽ち木にいるもの、あるいは樹上性のものなど、限られた条件にのみ生息するものもある。
ほとんどの種は植物性のものを食べ、生の植物や枯葉などやや分解の進んだ植物遺骸などを食べるほか、菌類を餌とするもの、雑食性のものなどがあり、一般にやや広い食性をもつ。また建物壁面やガードレールなどの人工物の表面に発生した藻類も餌となり、その食痕は日常的に見ることができる。

 空襲と聞けば、東京大空襲を想像する人は多いでしょうが、国内でいろんな地域が空襲を受けていますし、世界に目を向ければ、もっと悲惨であったり、大規模であったり、現在進行形であったりいろいろなのです。

 言葉を大事にすればするほど、やらなければならない事、感じなければならない事、知らなければならない事のなんと多い事か。

 タイトルに気を取られている場合ではないとは、かなり言い訳ですが、タイトルに拘らず、徒然で参りたいと思います。

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