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すっとこどっこいな話~なぜ会話がかみ合わないのか①
僕はこうしてnoteで文章を書くし、自分が伝えたいことを結論だけ言い放つようなことも断定もしないことを心掛けている。
丁寧さは謙虚さであり、相手を尊重することでもあるわけで、コミュニケーションが大事というありふれた文言においては、こうした姿勢が欠落して会話術や文章力について語られることがしばしばある。
その結果がすっとこどっこいを生み出すとは言わないが、それらを抑制するのに効果的な処方ではないなと思う。
すっとこどっこいとは
馬鹿野郎、馬鹿なやつといった意味で使われる、「すっとこどっこい」というののしり語がある。
最近ホラーデビューして話題に?なっているくまのプーさんはすっとこどこいである。クリストファー・ロビンは常にプーを『プーのお馬鹿さん』とバカにしている。
はたしてそうだろうか?
今夜&明日23時30分~ #くまのプーさん 映画を2作連続放送!今夜はプーさんと仲間たちが冒険に出掛ける「くまのプーさん クリストファー・ロビンを探せ!」、明日29(木)は「くまのプーさん ルーの楽しい春の日」。心温まるエピソードが満載です。 pic.twitter.com/fSn2kabENY
— ディズニー・チャンネル公式 (@disneychanneljp) March 28, 2018
すっとこどっこいの意味を知る人がどれだけいるのかは知らないけれども少なくとも誉め言葉ではないだろうことは100人いたら99人はそう答えるだろう。
脳科学的なアプローチをした場合、クルクルパーという言葉を知らなかったとして、『くるくる』や『ぱー』の音声的ニュアンスが誉め言葉でないと日本語圏の人なら直観するはずだ。
人を「お馬鹿さん」と言う、これをA、「すっとこどっこい」と言うをB、「クルクルパー」と言うをCとした場合、A=B,B=Cであれば、当然にA=Cである。これは論理的に正しいが、実際はどうだろうか?
すっとこどっこい
すっとこどっこいの語源について調べていたらこのような記事を見つけました。
なるほどひょっとこなのかと頷けるかどうかは、音に対して僕と同じ感覚を持っている方だと思います。或いは論理的に類推できる人。
ひょっとこが火吹き男から来ていることは知っていた。かまどに火を起こすときの火吹き棒を吹く男の表情がこれだというのは理解できる。
もともと馬鹿にされる象徴ということではないのだろうが、そのお面には妙な愛らしさと知性がないというか、飛んでしまっているように見えていることからひょっとこに例えられるのはいいことではなかったのだろう。
「どっこい」自体いは意味はなく、勢いをつける強調の役割であるから、「すっとどっこい」を直訳するのであれば、「ひょっとこみたいな馬鹿な人だよ、この野郎は!」となる。
くまのぷーさん
では「プーのおばかさん」はどうだろう。プーがどんなキャラクターか知らない人も少ないと思うが愚鈍、愚直と言えば言い過ぎ感があるだろうか。欲望にまっすぐで、悪意がまったくない。善悪の判断ではなく、感情の赴くままに行動するおばかさん。
「馬鹿」に敬称の「さん」をつけている。「Oh, silly ol' bear」「Silly old bear」直訳だと「愚かな年老いたクマ」となる。
「年老いた」とはのろま、判断力がないなどの意味で使われる比喩であって、プーが年寄りというわけではない。
つまり三段論法では同じだと言えるが、言語としては使い時も場面も違うということがわかる。いや、わかるかどうかが問題なのだ。
すっとんきょう【素っ頓狂】
頓狂とは「だしぬけで調子はずれなこと。あわてて間が抜けていること」であり、すっとんきょうは「非常にまのぬけたさま」を指す。
もしも三段論法に従って、「プーのおばかさん」と「すっとこどっこい」を同じ意味だとしてコミュニケーションの場で使ったのなら、それは素っ頓狂ということになるだろう。
だがこれは簡単なようで難しいことなのだと思う。これはかなり極端な例ではあるが、日常会話において、僕は素っ頓狂な場面にたびたび出くわすし、時と場合によってスルーしたり指摘したり対応を変えるようにしている。簡単に言えば、前者はそれで相手を不快にする場合。後者は笑い話になる場合だが、これには精度の高い推論が必要である。
そしてそれこそが僕が指摘するコミュニケーションにおいてはちょっとした講義で身につくようなものではないと考える理由なのだ。
強調の原理
質の原理(Quality)…情報が正確であること。
量の原理(Quantity)…求められている適切な情報量であること。
関係性の原理(Relation)…その会話のテーマに関係性があること。
明確さの原理(Manner)…順序立ててわかりやすく簡潔に情報を伝えること。
協調の原理についてはこちらのサイトを見ていただくと分かり易いが、どうだろうか。例としては極端な気もするが、実際にこういう場面に出くわすことはある。
質問に対して正しく回答が得られない。それは聞き手にも問題があるが、語り手も相手によってはより説明を付加して質問をする必要があるだろう。
ゆえにコミュニケーションというのは自分だけでどうにかなるものではないのである。
これについてはまた次の機会により深く説明したい。
無作為と悪意
知らずに、或いは意味を間違えて誤用してしまった場合は無作為の失敗であり、それは責められるべきことではないし、恥ずかしいことでもない。笑ってごまかせばいいし、修正をすればいい。
僕が問題に思うのは悪意的に先ほどの三段論法を使う人たちのことだ。
僕は屁理屈や嘘が得意だ。なぜなら物語を紡ぐにはそうしたスキルは必須だ。しかしそれは人を楽しませるために培ったものであって、自分のミスを隠したり、人の上げ足を取るため、陥れるために使うことを是とはしない。
論理が通っているように見えて、大事な部分が欠落した言動というのは、僕からすればすっとこどっこいであり、おばかさんとは思わない。
すっとこどっこいは「馬鹿なことをするんじゃないよ」という場面で使われる「馬鹿」であり、「プーのおばかさん」はその愚直さを愛しいと思う愛情表現の「お馬鹿」である。
「あんたバカァ」や「馬鹿ねぇ」は、その言葉だけではツンデレなのかヤンデレなのか、ただ罵倒されているのか呆れられているのかわからない。
わかる人が居るとしたらそれは超感覚の持ち主か、感覚が偏っているか、思考が偏っているのかのどれかだともう。或いは無知であるか、無垢であるか。
つまり、それで伝わると思い込んでいる人とは会話は成立しないし、馬鹿とお馬鹿の違いに気づかない、或いは気づかないふりをして話しかけてくる人とは齟齬が生じる。それはストレスに他ならない。
報道の在り方
マスコミュニケーション=マスコミにおいては言葉の意味、文節の使い方をより正確にする必要がある。コミュニケーションの手本となるべき存在である。
報道とは「不特定かつ多数の者に対して客観的事実を事実として知らせること」と同時にその客観的事実に基づいて意見又は見解を述べることを含むのであるが、果たして現代の報道というものは、そうした基本概念にしっかりと根差した報道姿勢で行われているのか、部分的に危惧を感じる。
かつて人は時事情報を知るのに新聞・雑誌といった紙メディアやラジオ、テレビといった映像・音声メディアに頼ってきた。
しかしそれらには次のような特徴がある。
スペース、時間が限られている
広告収入によってそれらの費用が賄われている
購買層によってそれらの費用が賄われている
1については編集によって報道する情報を取捨選択する必要があり、報じられない事実や削られる情報が存在する。
2、3についてはより公益性と収益性のバランスがそのメディアの個性となる。また専門性と大衆性もこれに加わる。
これらは問題と言うことではなく特徴だということにあまり関心が寄せられてこなかったのではないだろうか。
しかしインターネットの普及により、情報の一次ソースである編集前の情報がスペースや時間の制限なくネット界隈に散在、或いは集合するようになり、報道と情報、客観性と公共性について情報の受け取り側が取捨選択できる時代に移行してきている。
簡単に言ってしまえば、テレビ画面でコメントしているいわゆるコメンテイターが持っている情報を凌駕する情報量と鮮度を一般市民が持つことができる時代になったということだ。
なぜ報道が素っ頓狂、或いはすっとこどっこいなのか
SNS対オールドメディアであるとか偏向報道と言った言葉が散見する昨今、大なるもの、或いは代なるものは変化に対応する速度が遅く、鈍いという欠点をさらけ出しているように思える。
その様を言い表すのであれば、「すっとこどっこい」が適切であるなどと僕などは思ってしまうのであるが、それは少し言い過ぎかとも思う。かといって「プーのおばかさん」みたいに優しい気持ちにもなれない。
まとめ
何もかも疑って見てしまう、そうなるのは不幸なことだと僕は思う。かといって盲信は危険であるし、人の意見は聴くものだと思う。
しかし勝手な持論を展開して、こちら側の話を聞かないような態度をとる人とはコミュニケーションが取れるはずもなく、無視をするに限る。
「話は聴きますが、そういう考えもあるんですね。私にはわかりませんが、私の言うことに理解を示そうとしないのであれば、あなたの言うことに私も理解を示そうとはしません」
対人的にはそれでいいし、メディアに対してもそれでいいのではないかと思います。すっとこどっこいにこっちが付き合う筋合いはないし、だれも見向きをしなくなれば、収入が減って困るのはあちら側なのです。
発行部数の低下、視聴率の下落、これに勝る薬はないでしょう。
一方的に自説を強要するなんて、お葬式にひょっとこの面をかぶって参列するようなものです。
このすっとこどっこいが! と叱られるのがオチです。
かのソクラテスは自分の言説を書籍として残しませんでした。それは文章にした場合、読み手にちゃんとそれが伝わらないことを知っていた、或いは恐れていたからなのかもしれません。
対話によってお互いが結論に向かって言葉を交わし、出来る限り齟齬のないようにしていたのだと思われます。
そのような姿勢こを、現代においては大事なのかもしれませんね。