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アンチテーゼ~買占めなんていらない

「やっとトイレットペーパー買えたよ」

 昨日カミさんからLINEでメッセージが入った。僕はよかったねとか、そんな言葉を返すこともなく、自分が予測していた範囲内での出来事になんら思うところもなかった。

「どこにも売ってないよ」とやや、ヒステリックに言うカミさんを尻目に、そんなことはたいしたことじゃないと言葉では言わないまでも僕は態度で日ごろと変わらずに生返事を返す。

 SNSやその他ニュースを見ても、僕としてはさほど危機感を感じず、しかしながら危機意識だけは高いレベルを保ちつつ、こういうときに誰がどう感じ、どう考え、どう動くのかを見守る。

 大事なことは、ごく身近な人たちがこのような非常時にどう動くのかを注意深く観察し、僕の中のカテゴリーに落としこんでいくこと。それによって『かき乱されない環境』を常に保つことにある。

 新型といえど、それは何も新しい危機ではない。人類は――という大きな括りで言えば、常に新しいくも古いウイルスの危機にさらされ続けている。ウイルスはボクらよりも遥かに先輩の存在であり、神よりも先に存在していたといえなくもない(人間だけが神を持つという考えに基づけば)。

 第一次世界大戦という人類がかつて経験したことのない大規模な戦乱のさなか、人々を銃弾よりも多く殺したと揶揄される『スペインかぜ』と呼ばれたインフルエンザの被害について知っている人はどのくらいいるのだろうか。

スペインかぜは、記録にある限り人類が遭遇した最初のインフルエンザの大流行(パンデミック)である。
スペインかぜの感染者は約5億人以上、死者は5,000万人から1億人に及び、当時の世界人口は18~20億人であると推定されているため、全人類の3割近くがスペインかぜに感染したことになる。感染者が最も多かった高齢者では基本的にほとんどが生き残った一方で、青年層では大量の死者が出ている。
大日本帝国(日本)では、当時の人口5,500万人に対し39万人が死亡し、アメリカでも50万人が死亡した。これらの数値は感染症のみならず戦争や災害などすべてのヒトの死因の中でも、最も多くのヒトを短期間で死亡に至らしめた記録的なものである。(wikiより)

 まず僕が俯瞰で思うウイルスという存在は、人が増えすぎないように地球という生き物に備わった安全装置であるということ。まことに不謹慎な考え方かもしれませんが、ウイルスで死ぬということは、地球に求められてそうなったのだという考え方を、僕は持っていますが、まぁ、その是非はどうでもよくって、いいたいことは――

“抗いようのない凶事は存在し、それをどうにかできると考えるのは驕(おご)りである”

 リスクヘッジとダメージコントロールは、人が知恵を持ち、地球上のどんな生物よりも効率的にそれを行えることが、人類に地球上での繁栄をもたらしていると僕は考えます。

 つまり過去から学んで未来を予想する能力に長け、未来を望んだ形に変えることができるのが人という生き物のストロングポイントでもあり、逆に言えば、選択を誤れば未来を壊すことも可能な存在でもあるわけです。

 さて、僕にも家族――嫁入り前の娘や年老いた父が居ます。彼らをウイルスなんかで失いたくない気持ちは、当たり前に備わっているし、僕がそうなのだからみんなもそうであることはわかります。

 同時にこのような”抗いようのない凶事”に乗じて一稼ぎしてしまうような人間の業も理解し、人は天使にでも悪魔にでもなれる、あるときは加害者に、あるときは被害者になりうる。

”自分を知って他人を知り、他人を知って自分を知る”――さすれば、驕ることもなく、侮ることもなく、騙すことも、騙されることも防ぐことが可能となる。

 火事場に居るのは、焼け出された人、火を消す人、稀に火をつけた人と盗人がいる。しかしもっとも多いのはそれを見物する人である。焼け出された人に同情しながら、自分でなくてよかったと思い、火を消す人を頼もしいと思いながら、不備を指摘し、火をつけた人を批難しながら、やれるものなら自分を何かを燃やしたいと思い、盗人を軽蔑しつつも、あわよくば自分もと思ってしまう。

 よって人には『教え』や『学び』が必要であり、『慣習』や『規則』を用い、『戒め』と『畏怖』、『数値化』と『記録』、それらを『叡智』とし、危機管理と損失補てんをするのである。

”数値は万能ではない。常に疑ってこそ、かろうじて精度を保つことができる不確かなものである”

 僕が『統計』というものの信憑性について疑いを持ち始めたのは二十歳くらいのときだっただろうか。すなわち過去の計測技術と現在と未来の技術や理論、それによって数値の意味することが変わっていくということを知ってしまうと、この数値だから安全であるという安心も得られなければ、この数値だから危険だという確証も得られない。

 では無視すればいいのかといえば、何かを基準にしなければ、混乱でしかない。そのために統計は必要であるが、統計数値の揺らぎや偏りまでを理解して用いれるほどに、人は数値に対して強くもない。

”疑わなければ賢くなれないし、疑い深くても賢くなれない”

 僕が言いたいことは、現在の数値を過信するのも愚であり、それを用いないのも愚であるということ。そしてライオンを檻に入れることはできても、ウイルスを閉じ込めることは物理的に不可能であることを理解し、ものの道理と数値を知り、認め、知恵を働かせることが肝要だと思うのです。

 トイレットペーパーもマスクも、高度な医療検査技術もなかったころの人間社会にいまさら戻れないのは承知のうえで、しかし、一歩引いて物事を考えれば、知らずにやっていたことと、知った上でやることの違いを認めて、AがだめならBで、それもだめならCでという選択肢に、余裕ができるのではないでしょうかね。

”すべてを守ろうとすれば、すべてを失いかねない”のも道理であるならば、”大工である自分だけを守れても、資材を作る人、それを運ぶ人、そこに住む人を守れなければ、大工である自分も存在意味がなくなってしまう”というのも道理なのです。

 知恵も物資も分かち合ってこそ、人はよりよく生きていけるのではないでしょうかね。

 どんなにおいしいピザでも、一人で食べるよりもみんなで食べたほうがおいしいに決まっている。ものごとの本質って、そんなささいな喜びの中に隠れているのかもしれませんよ。

 買占めをするような人と、おいしいピザを一緒には食べたくないよね。

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